福島正則の墓(広島県)

福島正則の墓(広島県)

福島正則の墓の感想

福島正則さんのこと知っていますか!?!?!?!?(〃艸〃)ムフッ

福島正則さんは幼名を『市松』といい、尾張の国二つ寺村で桶屋を営む家の長男だったみたいです。
再婚された母親がたまたま豊臣秀吉の母(大政所)だったため、身内として豊臣秀吉に重要視されたようですね~(⌒∇⌒)

幼名、市松は相当の暴れん坊だったみたいで、盗人を捕まえ一刀両断したとか!?!?!?いろんな話が上がるほどの暴れはっちゃく(失笑)だったみたいで!!!

1578年に三木城攻めで初陣を飾ってからは、1582年の山崎の戦にの際には勝龍寺城に襲い掛かり、1583年には袋ヶ岳の戦いで一番槍・一番首として敵将の拝郷 家嘉(はいごう いえよし)を討ち取るなどの武功をあげたため(袋ヶ岳の七本槍)、突出して5,000石を与えられた(他の6人は3,000石)を与えられ大出世しました。
根来寺攻め→四国征伐→九州平定を行った後、伊予国今治に11万3,000国を与えられ大名と成り上がったみたいですね!!!小田原征伐の際は織田信雄の陣で韮山城を攻め、文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)の時は第五陣として朝鮮へ渡り京畿道竹山の守備をしていたとされています。

その後、関ケ原の際は石田三成憎さもあったと思いますが、東軍の徳川家康につき石田三成率いる西軍と対峙!!!上杉討伐に参戦していたが小山評定で徳川家康側に付くと反転し、清洲から美濃方面に進軍!!!西軍の織田秀信(清須会議で有名となった織田信忠の子『三法師』です)が籠る岐阜城を1日で落とし、関ケ原の合戦では宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)1万7,000の軍勢と奮闘を繰り返したようです。関ケ原合戦後は安芸国(広島)と備後国の鞆を与えられ49万8,000国の大大名となります。安芸国に入国した福島正則は国内の整備に着手(暴れん坊の武将として知られていますが、この辺は秀吉の下で育った武将なのでしっかりと内政も行えている名将です)、周防国に押し込められて毛利氏(毛利氏・吉川氏)を警戒し安芸国の西側に亀居城を築くなど名将としての手腕を発揮します。

が・・・そもそも徳川家に睨まれていた福島正則は水害で壊れた石垣を修復したことが徳川家への反旗として訴えられ(本多正純の謀略)安芸国を改易・・・信濃国川中島の高井群と越後国魚沼郡、合わせて4万5,000国に移転させられた様です。

福島正則の墓画像ギャラリー

広島市の不動院に広島藩初代藩主・福島正則の墓があります。福島正則が安芸国(広島)にやってきた時に「安芸安国寺」は禅宗から真言宗に改められたらしく不動明王を本尊とし『不動院』となっています。因みに・・・安国寺は西軍側の石田三成に着いた毛利輝元・小早川隆景の交渉役の安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)の寺です。。。((´∀`))ケラケラ(安国寺 恵瓊は関ケ原の合戦後、石田三成・小西行長と共に斬首されていいます)

福島正則の墓情報

年 代1624年
住 所広島市東区牛田新町3丁目4-9
種 別史跡
入場料無料
営業時間
駐車場有り(無料)

福島正則の墓へのアクセス

福島正則の墓レビュー

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