今川氏親の墓(静岡県)

今川氏親の墓(静岡県)

今川氏親の墓の感想

1473年、駿河国の守護大名だった今川義忠の嫡男として生まれました。幼名は龍王丸(たつおうまる)です!(^▽^)/ 今川義忠の奥さん(氏親の母親)は北川殿と呼ばれ、あの北条早雲(伊勢盛時 → 伊勢宗瑞)の姉とされています。 まだ氏親が龍王丸だったころ今川家は混乱の最中でした!
1476年に今川義忠が遠江国の塩買坂での戦で戦死してしまいます。龍王丸は未だ幼少だったため、家臣の三浦氏や朝比奈氏らが小鹿範満(おしかのりみつ)を擁立して家督相続の内紛が勃発してしまいます!?龍王丸派と範満派が分かれて数度の合戦に及ぶ事態に陥ってしまったみたいですね。。。
因みに・・・小鹿範満は堀越公方の家臣上杉政憲(うえすぎまさのり)の一族だったり、朝比奈氏・三浦氏の親戚だったりして、今川家の中でも結構強烈な人物だったことがわかりますね~ それと・・・関東(北関東~南関東全域に影響力)の上杉氏の勢力がここまで影響力を与えていたことにも凄く驚きを感じますね~\(◎o◎)/!

幼かった龍王丸(今川氏親)も家督継承どころか、反逆者の一族として討伐される可能性があったため、龍王丸(今川氏親)は母の北川殿と一緒に逃亡し身を隠したと思われます。。。この龍王丸の母親の北川殿こそ北条新九郎(伊勢盛時 → 伊勢宗瑞→北条早雲)でした!(〃艸〃)ムフッ!
今川家の混乱を懸念して幕府側の人間として送り込まれてきたのが伊勢新九郎です!その頃の駿河国は上杉政憲と扇谷上杉家の重臣だった太田道願が兵を率いて家督争いに介入してきます。今川氏親側として仲裁に入ったのが伊勢新九郎こと北条早雲です!!!(`・ω・´)ゞ
伊勢新九郎がどのような交渉をしたのかはわかりませんが、小鹿範満が今川氏親(龍王丸)の後見人として家督を代行するというカタチで決着させます。。。見事!時間稼ぎに成功させたってことですね!(o^―^o)ニコ
家督の代行となった小鹿範満が今川館(今の駿府城?)に入り政務を行い、今川氏親(龍王丸)は母の北川殿とともに小川の法永長者である長谷川正宣(はせがわまさのぶ)の屋敷であ小川城に身を寄せていた様です。その後、小鹿範満は家督を返そうとはせず家督奪取の動きを見せて、今川氏親(龍王丸)は15歳を過ぎて成人したが圧力をかけ続けた!!!!
1487年、今川氏親(龍王丸)と北川殿の危機を知った伊勢新九郎は再び駿河国に下向して、今川館から約十数km離れた石脇城(現在の焼津市)に兵を集め、いっきに今川館と小鹿範満を襲撃し滅ぼしてしまい、今川氏親(龍王丸)と北川殿を今川館に戻し、今川家の正式な家督を今川氏親に継がせることに成功します(⌒∇⌒)

今川氏親はこれまでの今川家の文字ではなく足利家の『氏(うじ)』という文字を得ています。その点からしても、伊勢新九郎が幕府との繋がりの証明なんじゃないかと思います。。。因みに・・・北条家も北条早雲(伊勢盛時)からの二代目の北条氏綱→三代目の北条氏康→三代目の北条氏康→四代目の北条氏政→五代目の北条氏直・・・などなど、北条氏もその『氏』の文字を引き継いでいます。この東国において幕府の権威を利用していたのかも知れませんね!?

氏親は、母親の北川殿、北条早雲たちのサポートを受けて遅咲きの名将へ育っていったと思われます。その証拠として、息子の今川義元は『東海一の弓取り』と云われ戦国時代、今川家過去最大の大名としての戦国大名となります!!!ただ・・・桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られてしまいます。。。

今川氏親の墓画像ギャラリー

『今川氏親の墓』は現在の静岡県静岡市慈悲尾の『増善寺』にありました。

家臣団???の墓もありながら!いろんな方の墓石の脇を進んでいくと!!!
『北条氏親の墓』があります~♪

今川氏親の墓(増善寺)情報

創 建681年
本 尊地蔵菩薩
住 所静岡県静岡市葵区慈悲尾302
種 別寺院(曹洞宗)
特 徴
入場料無料
営業時間
駐車場無料

今川氏親の墓(増善寺)へのアクセス

今川氏親の墓レビュー

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