岩槻城の感想
埼玉県さいたま市岩槻区にあるお城、岩槻城へ行ってきました。岩槻城は岩槻藩のお城で関東の平野部で比較的多い沼地を堀として利用した平城です。非常に広大な面積が残っており、ほとんどは公園や市民会館など現代の施設になってしまっております。普通に家族連れで遊びに来ても楽しめる公演ですが、遺構も多く残っており城跡としても見どころの多い岩槻城です。
岩槻城の歴史は、室町時代の末期に上杉持朝(扇谷上杉氏)に命じられて太田道灌が築城し始まります。※諸説あります。太田道灌は関東地方を代表する武将で、江戸城、河越城、この岩槻城などを築城し出来すぎたが故に主君の上杉氏に殺されてしまうという悲運の武将でもあります。
以前に書いた蕨城も似たような歴史ですが扇谷上杉氏から北条氏、そしてまた扇谷上杉氏、またまた北条氏、そして小田原征伐で豊臣氏に落城させられて徳川氏へと主君が変わったり戻ったり非常に戦いごとに主君が変わる取り合いになったお城でもあります。それだけ重要なお城であったということですね。
岩槻城画像ギャラリー
沼地を利用した浮城だったことがわかります。平城よりも水城といった方がいいくらい各曲輪が島のように独立してます。この看板のある現在位置の赤い表示が既に当時の水の中になってますね。
敷地は広いのですが、城の遺構として見られるのは新曲輪と鍛治曲輪のあたりのみとなります。本丸などは公園脇の道路、交差点あたりなので現在は見ることができないです。
曲輪などの痕跡なのですが、この写真を撮っている位置は当時は水堀(沼)だったと思われます。もし当時この階段になっている部分が存在したのであれば船寄せであったかもしれないですね。
土塁のような土の盛り上がりがずっと続きます。でも水があった当時を考えると岸と行った方が良いのかもしれないですね。
堀の中も歩けるようになってます。
池があります。たぶん最初の地図でいくと湿地帯であったあたりではないかと思われます。
堀の中を歩いて行きます。
ここまできて謎が解けましたね。どうやらこの堀は空堀とのこと。水はなかったんですね。
ということは周囲の盛土は土塁ということですね。
今は埋め戻されて堀障子を見ることはできませんでした。
壊されないようにか、ここだけ木でできた渡りがありました。
写真左側が堀(沼)で右側草木の生えていない道が堀です。あまり高低差が無いのがわかりますでしょうか。
ここはそれでも高低差がある方の場所です。空堀に水は入ってこなかったのか不思議ですね。
まだまだ堀を歩いて行きます。この辺りはだいぶ堀が深いです。
場所的には上部の最初の地図で言うと新曲輪と鍛治曲輪の間の角ばっている堀のところと思われます。
堀の最後は階段がありました。
階段登って道なりにくると鍛治曲輪に着きます。
鍛治曲輪に岩槻城ではなく別名の白鶴城と書かれた標柱がありました。
岩槻城の城門(黒門)
岩槻城の裏門
諏訪神社が敷地内にあります。
岩槻城情報
築 城 | 室町時代末頃 |
城 主 | 太田氏、北条氏、高力氏、青山氏、阿部氏、板倉氏 戸田氏、松平氏、小笠原氏、永井氏、大岡氏 |
住 所 | 三重県伊賀市上野丸之内 |
種 別 | 平城(水城) |
廃 城 | 1871年 |
特 徴 | 県指定史跡、市指定史跡 |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
岩槻城(いわつきじょう)へのアクセス
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