日新公(島津忠良)の墓の感想
日新公(島津忠良)のお墓に行ってきました!戦国時代の島津家と言えばこの日新公から始まったと言われるくらい重要な人物です。日新公は1492年に伊作城(いざくじょう)で誕生しました。
日新公が活躍した時代は島津宗家が弱体化していた頃で島津家としてお家の再興を求めていました。日新公は伊作島津家の生まれで宗家ではなかったのですが、宗家が弱体化していたため、伊作島津家10代目を継ぎ、相州島津家3代目を継ぎ、息子の島津貴久と共に薩摩・大隅・日向を統一していきます。
このような実績から日新公は島津中興の祖と呼ばれたりしております。
日新公としては宗家のために動いて島津家を再興させたので息子の貴久を宗家の当主にしようとうごきますが、島津宗家の第14代当主島津勝久(しまづかつひさ)と薩州島津家の島津実久(しまづさねひさ)が島津貴久を追い出そうと動き島津家のお家騒動が勃発します。ちなみに、このとき島津貴久は島津勝久の養子となっていました。
それでも勝久は実久の姉を妻としていたので、実久に島津宗家を継がせようと動きますが勝久と実久も対立するようになり、勝久は日新公(島津忠良)を頼り貴久を跡取りにして継がせることになります。
これに反発したのが島津実久でかなりの実力者でもあるので、1526年まず当主の勝久を追放?亡命?させます。勝久は母方が豊後国の大友氏の出身だったので豊後への亡命となったようです。勝久はその後も再起を図ったようですが、最終的に叶わず豊後で晩年を過ごして1573年71歳でこの世を去りました。
島津忠良・貴久親子と島津実久の対立は大きくなり、島津忠良と貴久は島津実久に攻められて清水城を追われ伊作城まで撤退させられます。1536年島津忠良・貴久は実久を打倒するため一宇治城を伊集院氏から奪取します。1539年に紫原(むらさきばる)の戦いで島津実久を鹿児島から追放することに成功します。その後も実久は再起を狙いますが島津忠良・貴久親子を倒すことはできず、1541年出水へ隠居します。1553年41歳で島津実久は亡くなり島津貴久の15代当主としての座が確定します。
長くなりましたが、日新公(島津忠良)はこのような形で島津家を再興し、貴久が内城を築城すると1550年、加世田に隠居します。そして加世田の地で77歳で亡くなり、この記事のお墓のある場所、「武田神社」の御祭神となって祀られています。
日新公(島津忠良の墓)画像ギャラリー
日新公いろは歌の説明がありました。晩年に日新公が「人間として社会に生きる道を説いた」ものとのことです。

常潤院跡(じょうじゅんいん)の説明がありました。もともと日新公が建てた塔頭という学問などを教えていたところとのことです。




井尻神力坊の墓
島津忠良(日新公)の命により諸国を歴訪した修行僧で加世田に戻ってきた時に日新公がすでに亡くなっていて殉死したとされているようです。


寛庭芳宥大姉(かんていほうゆうだいし)の墓
寛庭芳宥大姉は日新公(島津忠良)の妻で島津貴久の母親になります。


日新公(島津忠良公)の墓



殉死墓
島津忠良公が亡くなった後、殉死した2名の家臣のお墓とのことです。

日新公(島津忠良)の墓情報
| 年 代 | 1568年没 |
| 住 所 | 鹿児島県南さつま市加世田武田 |
| 種 別 | 史跡 |
| 入場料 | 無料 |
| 営業時間 | – |
| 駐車場 | 有り(無料:武田神社駐車場に停められます) |
日新公(島津忠良)の墓へのアクセス
日新公(島津忠良)の墓レビュー
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