神辺城の感想
南北朝時代から江戸時代初期まで存在し備後国の中心であったと思われる『神辺(かんなべ)城』です。黄葉山に築かれた城で神辺平野を見渡せ、神辺平野に点在するように他にも名もない城がたくさん点在しています。ただ、近年は研究が進み現在では神辺城も備後国に於ける政治の中心からは外れた存在であったと言われるようになっています。
私が心から愛する毛利元就の数多くの本を読んでいても必ず出てくる山城で、山名氏(杉原氏とも?)といわれており、毛利元就の時代には山名理興(ただおき)が城主なところから、個人的には山名氏が築いて一大勢力にした城だと思っています(〃艸〃)
山名理興は『興』の文字があるように、当初は大内氏と関係が深かったものだと思われますが、当時、急速に勢力を拡大していた出雲の尼子氏に従うようになり、尼子側について戦うことが多く見受けられます。尼子氏が毛利元就が籠る吉田郡山城を攻めるが大敗すると、備前・備後で尼子側についていた武将たちがこぞって大内側に鞍替えしますが、今度は大内氏が尼子氏の居城、月山富田城を攻めたときは当初は大内側についていた武将が再び大量に裏切り、山名理興も大内側から尼子側に寝返った武将の一人です。これをきっかけに大内氏が大敗!惨敗!大内側から裏切らなかった毛利元就は殿(しんがり)を命令され、大内氏が撤退するまで防ぎながら自らも撤退しますが『七騎落ち』といわれるほどの大敗となります。
山名理興は武勇に優れた武将で、その後、力を回復した大内&毛利連合は神辺城を攻撃され見事に押し返します。大内方の主力は撤兵しますが、神辺城の対岸に要害山城を築いて平賀隆宗を入れて戦いを継続させます。しかし、翌年の7月に平賀隆宗は陣中で病没をしてしまいます。主君を失った平賀勢が神辺城めを継続。9月には山名理興は耐え切れずに尼子氏を頼って月山富田城に逃亡し神辺城は開城されます。その後、毛利元就が大内・陶氏を下剋上で滅ぼし備後を支配すると、山名理興は毛利氏に恭順を許され再び神辺の安堵を認められたようですね。
その後、関ケ原があり西軍の毛利氏が負けると毛利氏に従い、代わりに東軍側だった水野勝成が神辺城に入城します。水野勝成は元西軍の武将達を監視する役目を持っており、神辺城は城の規模と利便性の問題から新たに福山城を築きます。水野勝成は福山城が築城されると神辺城から移り神辺城は長い役割を終了し廃城となります。。。
神辺城画像ギャラリー
のっけから凄い堀切跡ですなぁ~!うんうん凄い!
三番櫓跡です・・・こっから神辺平野が見渡せます!実に爽快!(*`艸´)ウシシシ
二番櫓→乾櫓→二之丸に城攻めしていきます!
井戸を発見!!!!!!強い城の条件ですなぁ~
鬼門櫓跡・・・・まずまず・・・・素晴らしいですね!この風景~♪
説明看板を見ていると、周りに相当の城が存在していたんですね!
石垣が少し残っていますが、水野勝成が福山城築城のときに石垣をたくさん移したと言われています!
神辺城情報
築 城 | 1335年 |
城 主 | 朝山氏、山名氏、杉原氏、毛利氏、福島氏 |
住 所 | 広島県福山市神辺町 |
種 別 | 山城 |
廃 城 | 1619年 |
特 徴 | – |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 福山市神辺歴史民俗資料館もしくは堀切の駐車場が利用できます。 |
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