笠原新三郎(清繁)首塚の感想
笠原新三郎(清繁)は志賀城の城主で武田晴信(信玄)との戦いで敗れた武将です。
佐久地域を収めたい信玄が1546年に志賀城を攻めて、笠原新三郎は関東管領だった上杉憲政に援軍を依頼しますが、武田軍は援軍を志賀城に近づける前に碓氷峠の辺りで打ち破ります。その時に討ち取った敵将と敵兵の首を武田晴信(信玄)は志賀城の周りにおよそ3000も並べたと言われております。
それから、程なくして志賀城は水の手(水源)を武田晴信(信玄)に断たれ落城。志賀城の城主だった笠原新三郎(清茂)も戦死し、この地に首塚が作られました。
笠原新三郎(清繁)首塚画像ギャラリー




田んぼの真ん中にポツンと首塚があるのでちょっと異様でもありますが、訪問する季節によっては水の張った田んぼと綺麗な空が移り壮観でもあります。

案内もありますが、かすれてきていて見づらいです。武田の家紋に風林火山で看板作られているのは少しかわいそうにも見えてしまいます😭
笠原新三郎(清繁)首塚情報
年 代 | 1546年 |
住 所 | 長野県佐久市志賀 |
種 別 | 史跡 |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 無し |
笠原新三郎(清繁)首塚へのアクセス
笠原新三郎(清繁)首塚レビュー
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