三河川尻城 / 川尻城(愛知県)

三河川尻城 / 川尻城(愛知県)

三河川尻城 / 川尻城の感想

三河川尻城(川尻城はたくさんあるのでここではあえて『三河川尻城』と云わせて頂きます)は、上野国甘楽郡奥平郷(現在の群馬県)から三河国作手に移り奥平貞俊により築城された城とされています。
(因みに、上野国甘楽郡奥平郷が奥平氏発祥の地と云われており、その名も奥平城があるみたいなので後日行ってみたいと思います(^▽^))
後に、奥平貞俊は勢力拡大と共に手狭になった三河川尻城から直ぐ近くに三河亀山城を築き移城します。
三河山間部の小豪族であった奥平氏は今川氏→織田氏→松平氏→武田氏→徳川氏(松平氏から改姓)と逞しく生き抜いた様で、奥平定勝のころは今川氏に付いていたが息子の奥平定能の時に桶狭間の戦いがあり、今川義元が討死すると織田信長・徳川家康(この時は松平元康)に奥平定勝と定能親子は鞍替えしたようです。(この頃、奥平定勝から定能に家督が移っている可能性があります)
一時、長篠・設楽原の戦いの様に武田信玄が三河に侵攻すると、奥平定能と息子の信昌は武田氏に付くこととなります。興味深いのは奥平定能の息子の名前が『信昌』になっていることです。一説には織田信長の『信』の字を貰ったとありますが、『信昌』まで考えると武田信玄の『信』と伝統ある『昌』という字を貰って『信昌』となったと自分は考えています。この頃は武田色が強かったんだと思います。

武田氏側に付いた奥平定能・信昌ですが長篠・設楽原の戦いの際に徳川家康との内通疑惑を奥平定能が掛けられたがそれは疑惑は真実で、徳川家康とは密かに連絡をとりあっていた様です。
その後、徳川家康は奥平氏を重要視し、徳川家康の長女亀姫を奥平定能の長男信昌に嫁がせ、関係を強固にしたと云われています。

三河川尻城は標高570mの小高い山に築かれた山城で、山頂の本丸は南北32m・東西75mの楕円形となっており土塁などで囲まれていたんじゃないかと思われます。
お城には結構上の方まで簡単に行くことができて、入口に木の門(柵?)がありました。山頂の本丸付近だと思われ、野積みの石垣(石垣ってよりは生活のための石積なのかもしれません)や土塁などの構造物は確認できます。

この辺一体は川尻城や亀山城をはじめ、たくさんの山城があり敵が攻めてくるのに備えた防衛戦なのか、三河国へ攻め込むための要害の地だったのが、とにかく重要な場所だったんじゃないかと思います。

三河川尻城画像ギャラリー

三河川尻城の入口です!模擬冠木の門が雰囲気を演出していますね!

現在は城山公園として整備されています。よって、結構いいところまでクルマで来れますよ♪

城内は土塁の跡が数多く残されています。

三河川尻城の本丸です! 川尻城!!!獲ったぞぉぉぉぉぉぉぉぉ!

本丸付近には、野積みの石垣(石垣ってよりは生活のための石積なのかもしれませんが)が確認できます♪

川尻城の一角に『忠魂碑』が建っており戦没者を祀ってありました。

三河川尻城 / 川尻城情報

築 城1424年
城 主奥平氏
住 所愛知県新城市作手高里城山32
種 別平山城
廃 城不明
特 徴
入場料無料
営業時間
駐車場有り(無料)

三河川尻城 / 川尻城へのアクセス

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