舞鶴城/国分城/国分新城/国分御屋形の感想
この前の記事で最初に島津義久が隠居した居城の富隈城について書きましたが、富隈城の後に移った居城が国分城(こくぶじょう)になります。説明するまでもないかもしれないですが、島津義久(しまづよしひさ)は島津家第16代当主にあたり、義弘(次男)、歳久(三男)、家久(四男)と共に「島津四兄弟」として戦国時代で活躍した武将として知られています。そんな義久の居城ですが、富隈城から1604年(慶長9年)に移ってきたとされています。一般的な説では富隈城は平城で防御が甘く攻められやすいために国分には裏に詰城の「隼人城」があるので移ってきたと言われています。徳川から攻められた時を考えたからだのと通説では言われております。
あくまでも個人的な想像ですが、本当にそんなことを考えて移っていたら逆に徳川から攻められるか改易など領地没収に遭っていると思います。福島正則や加藤忠広、大久保忠隣など家康から3代目家光の頃までは改易やお家断絶など外様の揚げ足を取るような理由の領地没収などが相次いでいることからもこの考えは違う気がしています。ではなぜ移ったのかですが、地震が理由ではないかと個人的には考えています。慶長9年(1604年)は慶長地震が起こった年で、富隈城は当時は港と一体で整備されていたお城で海辺からすぐにあったお城でした。この状況からたぶん津波などが来て移転を余儀なくされて国分に移ってきたのではないかと個人的には思っています。もしくは支城だったところに仕方なく転居してきて1604年はたぶん義久が地震により国分に築城を命じた年。(厳密には義久が築城を命じた記録はないみたいですが。)そして敷地整備、屋形などの完成は翌年以降だったのではないかと思っています。異論は認めます!笑
現在の国分城は国分小学校と国分高校の運動場になっており、石垣と堀、2つの石橋が残っていて「朱門」が当時の場所ではないですが城跡であることを印象づけてくれています。
舞鶴城/国分城/国分新城/国分御屋形画像ギャラリー
整備された歩道に「舞鶴城屋形跡」の石柱がありました。


当時の国分城の創造図ですかね?パネルがありました。


朱門





堀跡・石垣


石橋・堀








城跡として残っている遺構は少ないですが、それでも石垣や石橋、朱門など見どころあるお城でした!満足です😆
国分城/舞鶴城/国分新城/国分御屋形情報
| 築 城 | 1604年 |
| 城 主 | 島津氏 |
| 住 所 | 鹿児島県霧島市国分中央2丁目4−13 |
| 種 別 | 平城 |
| 廃 城 | 1877年 |
| 特 徴 | – |
| 入場料 | 無料 |
| 営業時間 | – |
| 駐車場 | 無し |
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