黒羽城(栃木県)

黒羽城の感想

黒羽城は現在の栃木県大田原市(下野国)にある県北でも那須烏山城と同様に大規模な山城で、白旗城にいた大関高増が新たに黒羽城を築き自らの居城として移り住んだ様です。
この大関高増は元々は大田原資清の長男でしたが戦略上大関氏へ養子に出され、大関氏の家督を継いだものと思われます。那須氏の傘下にいましたが1560年小田倉の戦い(白河結城氏と蘆名氏が那須氏を滅ぼすために侵攻した戦い)で、数で劣る那須勢は大変な苦戦を強いられた様で、総大将であった那須資胤も一時は自刃を覚悟するほどだったみたいですねぇ~しかし、有力家臣である大関高増らの軍勢が駆けつけたことにより何とか窮地を脱出したにも関わらず、苦戦の原因を那須資胤に避難されたため大関高増は大田原氏と上那須衆たちと那須氏から離反し佐竹氏に内通し、佐竹氏・宇都宮氏も加わり那須氏との激しい対立を続けます。後に・・・再び大関氏と大田原氏は那須氏と和解し大関高増は那須氏の重臣として『那須七騎』の筆頭として那須氏に仕えることとなります。

1590年に豊臣秀吉が小田原征伐を始めると、主君の那須氏は動かない(秀吉に会いに行くことを拒否)とは反対に大関高増は弟の大田原綱清の息子(綱清は同年に亡くなったため家督を息子に譲っていた)大田原晴清と共にいち早く小田原征伐に参陣したため、主君の那須氏は後に改易・・・大関高増は1万石の所領を安堵され息子晴増に3,000石を加増されたため1万3,000石の大名として独立を果たします。

更にその後、『関ケ原の戦い』においても大関氏は東軍に与したので、戦後に徳川家康から加増されて1万8,000石の大名となりました。たぶん『黒羽城』はその頃に上杉氏の抑えとして大規模な城の拡張を行い、今の大規模な『黒羽城』になったのではないかと思われます。
大関氏は関東では珍しく外様大名でありながら幕末までこの地の藩主として支配をしていたようですね!

黒羽城は八溝山西麓の伊王野黒羽支丘の突端を利用した天然の要害で、多くの空堀と土塁からなる多くの郭を要するの山城です。南北約1,500メートル、東西約250メートル、県北最大規模の山城みたいです。本丸跡・二の丸跡・三の丸跡の一部・会所跡などが残りスケールの大きさを感じることが出来ます。深い空堀では最大で深さ15m・幅20mもあり、高い土塁では最大で高さ4m・幅5mもあり、公園として整備されていますが時間をかけて城攻めしたい山城です!

黒羽城画像ギャラリー

黒羽城は現在城跡公園として整備されているため大きな駐車場を完備しています。

う・・・・薄くて・・・・読みづらい・・・・・・・(´;ω;`)ウゥゥ

なんだか『すごい』ことだけはわかりますねぇ~((´∀`*))ヶラヶラ
さてさて・・・城攻め開始です!(”◇”)ゞ

空堀だろうか???両脇はしっかりとした土塁に囲まれた空堀の上を橋で渡ります。

山城内の土塁もなかなか迫力がありいい感じですね~♪

お!出た!広い!!!!本丸かな???????

なんか舞台みたいな建物がありますが、その辺にも館なんかがあったのでしょうか???

本丸に到着です!上杉への備えとして拡張したらしいですが、なかなかの規模の大きさですよ!関ケ原で国を削られたとしても上杉軍の武力はかなり警戒されたものだったんでしょうね!

大規模な空堀を渡り二の丸に攻め込んでみます!

二の丸です

道路を挟んで『水堀』『土塁』があるようでしたが・・・俺にはよくわかりませんでした!( ノД`)シクシク…

黒羽城には松尾芭蕉が長く滞在していたのが有名で、黒羽城に隣接して『黒羽芭蕉の館』があります!

黒羽城情報

築 城1576年
城 主大関氏
住 所栃木県大田原市前田980
種 別山城
廃 城1871年
特 徴市指定史跡
入場料無料
営業時間
駐車場有り(無料)

黒羽城へのアクセス

黒羽城レビュー

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