三河亀山城 / 亀山城の感想
亀山城ですが、全国にたくさんあるのでここでは『三河亀山城』と云わせて頂きます。
前回、三河川尻城でもアップしましたが、上野国甘楽郡奥平郷(現在の群馬県)から三河国作手に移り奥平貞俊が1394年~1423年ぐらいに三河川尻城を築城し、1424年(応永31年)に奥平貞俊によって築城されたと云われており、奥平貞俊は三河川尻城からこの三河亀山城に居城を移したと云われています。
奥平貞俊は北関東におり奥平定家の長男であったが当時の北関東は天皇・新田氏・足利氏などの南北朝時代のしがらみから抜け出す様にこの三河国作手に辿り着いたようですね。。。
奥平貞俊は三河川尻城を築いた後に、この三河亀山城を築いたとされその後居城となり、奥平貞俊から貞久→貞昌→貞勝→そして桶狭間や長篠・設楽原の戦いなど、戦国の動乱に巻き込まれる奥平貞能、そして、奥平信昌に繋がっていく感じとなります。。。奥平信昌はその後、徳川家康の娘『亀姫』を娶ることとなります!当時の徳川家康がこの奥平氏を重要視していたかがわかりますね。
奥平信昌はその後、徳川家康の養子扱いとなり、奥平→松平(この辺が我々の混乱を生み出していた根源かもしれませんね~苦笑)となり、その後、徳川秀忠へと繋がっていきます。。。(^▽^)/
三河亀山城は、現在の新城市北西部の山間地にある作手地区のほぼ中央部に位置し、小高い小山(?)に築かれている感じでした((´∀`))ケラケラ
東西60m、南北28mの楕円形を呈し曲輪がある感じで、周囲は土塁で囲まれていますね。切岸や腰曲輪状などがあり見どころが満載です♪(個人的にね♪)南側は上部幅16m、堀底幅4mの大規模な堀を配していて、時代がどうなんだかわかりませんが奥平貞俊さんのセンスが光っていますね!笑笑
調べてみますと虎口は東西2箇所あり、東側の曲輪とはスロープ状だったり西側の曲輪とは土橋になっており、この辺は築城から徐々に変わっていたんかも知れませんよね~(o^―^o)ニコ
三河亀山城 / 亀山城画像ギャラリー
おいおい!!!!案内板もありがたいですが、もぉむき出しに三河亀山城がモロアピールしてきますね!(〃艸〃)ムフッ
向かって左側から回り込み、亀山城攻めを決行致します!(‘◇’)ゞ
確かに、グイグイ行くと!切岸(今の俺の中では飯山城(長野県)の切岸がNo1ですが!?(〃艸〃)ムフッ)や腰曲輪状がどんどん続きますね~♪
よしよし!ぐっと!登っていこうじゃないねぇか!(*`艸´)ウシシシ
大規模な土塁!空堀!切岸!がわかりますねぇ~♪ けっこう幸せです~♪
お!!!!!!!来たかな!?三河亀山城!陥落すぅぅぅぅぅぅ(〃艸〃)ムフッ
しかし!!!!虎口が俺を阻みますねぇ~♪♪♪
三河亀山城!本丸!!!陥落です!!!!!(*`艸´)ウシシシ
三河亀山城は下から見上げると、『裸の平山城』になっていますので、すぐにわかるかと思います!この三河亀山城に、徳川家康・武田信玄が入れ替わり立ち代わりしていたって考えると、めちゃくちゃ萌えますねぇぇぇぇぇ~♪
調べてみると・・・(こればっかりですみません!苦笑)立地場所は、徳川家康の吉田城のある東三河平野部と、これまた徳川氏に重要だった岡崎城のある西三河地域までめちゃくちゃ近くて!東西三河への至る陸上交通要害だったため、徳川氏も武田氏も重要視したんだと来てみて感じました♪(^▽^)/
三河亀山城 / 亀山城情報
築 城 | 1424年 |
城 主 | 奥平氏、松平氏 |
住 所 | 愛知県新城市作手清岳 |
種 別 | 平山城 |
廃 城 | 1610年 |
特 徴 | – |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 有り(無料) |
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