守谷城の感想
茨城県守谷市にある守谷城址公園へ行ってきました。
守谷城は平将門が作ったと言われる伝説もあるお城です。住宅街のすぐ隣にあり市民に散歩など気軽に散策できる公演として現在は残されている城跡です。城が作られるまえに相馬御厨(そうまみくりや)と言われる神様への供物を用意する荘園(しょうえん)があったとのことです。
お城として歴史に名前が出てくるのは1525年ごろからなのでこのくらいの頃に築城されたのではないかと思われます。守谷城は千葉氏の流れを持つ相馬氏の居城でした。相馬氏は戦国時代の関東戦乱で古河公方や北条氏などに従属し北条氏に従属した際に相馬氏のお城から芳春院周興(ほうしゅんいんしゅうこう)が入城します。しかし、まもなくその北条氏も小田原征伐により滅亡。徳川家康の家臣、菅沼氏が城主になります。菅沼氏も転封、移封により1628年に守谷城は廃城となります。その後も守谷領としては残り酒井氏が領主となりますが、酒井氏も1669年に転封となり守谷領は関宿藩に組み込まれていきました。
城としての守谷城は小貝川を天然の堀として利用した水辺に築かれており、三方を水に囲まれた台地を利用したお城です。水運のためのお城という作りになっております。そのため東西にそれぞれ船着場があります。現在は水で囲まれてはいませんが、湿地帯のようになっているので雨や雨の後は長靴必須です。
現在も船着場の痕跡や、土塁、曲輪、堀と遺構がはっきりわかる形で残っているので見応えある城跡です。
守谷城画像ギャラリー
現在の公園地図と下の当時の想定図を比べてみると水に囲まれてもいないので面影はほとんど残っていないですね。
当時はこの見えている一帯が水に覆われていたものと思われます。
階段になって降りられますが、昔の土手ではないかと思います。
階段を降りて写真を撮ると土手っぽさが伝わりますでしょうか。
沼地を埋め立てたというのがわかりますね。
ちょっとわかりづらいですが、右側が先程の沼地で土が盛られているのは土塁では無く土手です。
この写真を撮っている位置は当時の空堀だと思われます。
手すりの写っている写真の逆方向。左側が土手になります。右側が二の丸あたりですかね。
歴史の説明にプラスしてこの自然や遺構を守っていくために無理に斜面にはいったり、野鳥などの観察地にもなっているので大事に使ってくださいということのようです。訪問される方はくれぐれもご注意ください。
階段を登り切ると案内板がありました。
二の丸の枡形虎口とのことです。現在はよくわからないですね。。
ここまでの3枚が二の丸です。結構広いですね!
土塁の上に行けるように整備されています。
上に来ると土塁の形がはっきりとわかります。
今は普通に歩けますが、写真の杭があるあたりが船着場だったと思われます。
船着場から荷物を運ぶために坂道枡形虎口になっているとのことです。
写真ではあまりわからないと思いますが、直線で船着場からだと坂道が急になるため荷運びが大変になるため、船着場から何度か折れ曲がるように蛇行して二の丸、本丸に行くように作られており、それが結果として虎口の機能も持つことになったということらしいですね。
ここまでの3枚。二の丸の矢倉台があった場所とのことです。
少し土が盛られていてなんとなく雰囲気が伝わってきます。
ここまでで二の丸周辺見学です。結構見るところ多くて楽しいです!
写真では伝わりづらいですが、二の丸と本丸の間に竪曲輪という細長い曲輪がある変わった構造を持っているのが特徴です。この竪曲輪は二の丸と土橋(この上の写真)で繋がっており、この土橋と竪曲輪が縦横から矢を打てるようになっており、横矢掛かりの構造を持ち、本曲輪を守る構造になっていたと考えられているらしいです。
竪形曲輪と本曲輪の間は障子堀だったらしいですね。今はほぼ障子堀の痕跡はわからないですが。
ここが昔、障子堀だったらしいですね。
静岡県の障子堀で有名な山中城のようにいつか整備されたら嬉しいですね!
これを登ったら本曲輪(本丸)です。昔は竪曲輪から橋が掛かっていたようですが今はないので階段を登ります。
今は無いですが昔は橋と本丸側に矢倉台があったとのことです。
なかなか広くて見応えのあるお城でした!
これにて守谷城登頂完了です。
守谷城情報
築 城 | 不明 1525年ごろ |
城 主 | 相馬氏、芳春院殿、土岐氏、堀田氏、酒井氏 |
住 所 | 茨城県守谷市 |
種 別 | 平城(水城) |
廃 城 | 1628年 |
特 徴 | 市指定史跡 |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
守谷城(もりやじょう)へのアクセス
守谷城レビュー評価
守谷城についての皆さんの評価をお願いします。
守谷城おすすめの理由や訪問時の感想などもご記入いただけると嬉しいです。