中居城(茨城県)

中居城(茨城県)

中居城の感想

勝手に『南方三十三館シリーズ』第5弾!!!『中居城』です(^▽^)/

佐竹義重・義宣親子を調べてて、常陸国を治めるにあたって居城だった太田城から水戸城へ移す際に、秀吉の天下の中、未だ従わなかった常陸国の武将たちを太田城に呼び、騙し討ちで皆殺しにした(中には逃げ出せた武将もいましたが後で滅ぼされています)話が合って、その対象が『南方三十三館(なんぽうさんじゅうさんだて、なんぽうさんじゅうさんやかたと呼ぶみたい)』となり、鹿島・行方両郡の常陸大掾(だいじょう)氏系の一族を中心とする勢力だった様で、その滅ぼされた南方三十三館の城攻めをしたいと思い!勝手に『南方三十三館シリーズ』で城攻めしてみたいと思います(o^―^o)
(この文章は『南方三十三舘シリーズ』で転記していきますのであしからず!)

中居城、最後の武将は中居秀幹だと云われています。
中居秀幹は、上記に記載された通り太田城で佐竹親子に南方三十三館の武将たちは謀殺をされたが、中居秀幹は酒宴の途中で気配を察して抜け出したものの捕えられて殺害されてしまったらしいですね。
中居城には『念仏堀』っていう場所があるみたいですね。『念仏堀』は中居城の増強工事を行っていた領民たちが、空堀の掘削工事中に秀幹の訃報に接すると念仏を唱えて死を悼んだと云われており、その空堀を『念仏堀』とされたようですね。

中居氏もやはり常陸大掾氏一族みたいで、鹿島三郎政幹の第3子の四郎時幹を祖とし、1300年頃、当初は白鳥城を居城としていましたが、勢力拡大にともない新しく中居城を築いて居城を移した様ですね。。。その際に鹿島氏から中居氏に名前を変えたようです。

中居城画像ギャラリー

中居城は・・・・朽ち果てていました(´;ω;`)ウゥゥ

中居城は、東方に西山館・南方に新館を置いて備えを固めていた様で、標高20mほどの小高い丘の先端部を利用した東西約150m、南北約600mもある広大な山城だった様です。私たちは藪がひどくて中居城の内部に強行突破する事を断念する結果です・・・( ノД`)シクシク…

中居城情報

築 城不明(1300年頃)
城 主中居氏
住 所茨城県鉾田市中居1244
種 別平山城
廃 城1591年頃
特 徴
入場料無料
営業時間
駐車場無し

中居城へのアクセス

中居城レビュー

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