伝 大江広元の墓(神奈川県)

伝 大江広元の墓(神奈川県)

伝 大江広元の墓の感想

大江広元は毛利元就の祖として、私とかはとても重要な人物と考えていました。
(毛利元就も一時、幕府側に出す書状に大江元就と記載していたことがあります)

大江広元は京都の儒学を専門とする京都で朝廷に務める下級貴族だった中原広季の養子となったとあります。大江広元もその時は中原広元と名乗っていたようですね。途中、1216年にあらためて大江広元と改めた様です。
京都にいたころ、兄の中原親能が源頼朝と親しく早くから京を離れ源頼朝に従って鎌倉へ下向していたこともあり、1183年に源義経が京に上洛すると中原親能も伴に上洛し源頼朝の代官として万事を奉行・貴族との交渉などの役割を果たし始めます。
一方、中原親能に代わりに大江広元が鎌倉へ下り源頼朝の側近として仕える様になります。大江広元は鎌倉で公文所の別当なり公文所が政所となると、別当として朝廷との交渉担当となりその他の分野にも実務家として広く関与していきます。武家の支配(鎌倉幕府の支配)を強めるために守護・地頭を設置したのも大江広元と云われています。
また、源頼朝が強いつながりを持っていなかった土御門通親(村上源氏の源通親)などの公卿とも独自の連絡網を持っていたことから、大江広元の存在は単に鎌倉における行政の統括だけでなく、京吏の筆頭であり政策の決定や施行にも影響力を行使し得る重要な地位を占める存在になっていったと思われます。
鎌倉幕府創立時からは源頼朝に次ぐ高い官位を持っており、源頼朝が亡くなり最高実権者である北条義時が鎌倉幕府の実権を握っても北条義時を上回る官位(立場)であったことから、少なくとも名目的には将軍に次ぐ存在として遇されていたと云われ、抜きんでたナンバー2の存在を誇示し続けたんだと思います。

大江広元も鎌倉幕府の運営に尽力し期待に応えていきます。源頼朝の死後は北条政子や執権の北条義時と協力し合って幕政に参与し続け、1213年の和田合戦に対しては、軍勢の召集や所領の訴訟において、大江広元と執権の北条義時と共に『連署』をした文書を作成したり、1221年の承久の乱(じょうきゅうのらん)の時には、嫡男の親広が後鳥羽上皇側の官軍に付きますが、大江広元はあくまでも鎌倉幕府側に付き主戦論を唱えた北条政子に同調し、朝廷との一戦には慎重な御家人たちを鼓舞して幕府軍を勝利に導いた功労者となっています!!!

数々の功績が認められ、大江広元の一族は全国に支配地域をもらっており、そのひとつの相模国毛利荘をもらった四男の季光が大江から毛利姓を名乗り初代毛利氏(毛利季光)となり、その後、末裔が安芸国で大英雄の毛利元就となっていきます!

伝 大江広元の墓画像ギャラリー

『伝 大江広元の墓』は明王院の裏山、胡桃ヶ谷の住宅地にある山の奥にあります。
何度かチャレンジしたのですが入り方がよくわからず数回目のチャレンジになります。
今回は明王院の真反対の北側にある瑞泉寺からアタックしてみようと考え行ってみました(`・ω・´)ゞ

行ってみて気付いたのですが、この瑞泉寺は吉田松陰の伯父が重職を務め、吉田松陰自身もペリー船で密航しようとここに滞在していた場所らしいです。吉田松陰は長州藩、長州藩と云えば毛利家・・・巡り合わせと発見に驚きがいっぱいです♪

その脇に『天園ハイキングコース』がありますので、そこから山の奥に入って行って探してみます!( `ー´)ノ

おおおお!岩がごつごつしてハードそうだぁぁぁ~

向かって右側に進んでみますかなぁ~

携帯のGoogleマップを頼りに進んでいきます!

なかなか山深く進んできましたが・・・山道から外れた場所をGoogleマップが示しているので、なんとなくこの辺から山道を外れてもう一段登ってみたいと思います( `ー´)ノ

????ん   なんか見えてきたぞ!

ありました!!!たぶん『伝 大江広元の墓』じゃないですかねぇ~(^◇^)

大江広元の墓は五層塔になっていますね~ 石造層塔で鎌倉期のものと考えられているため、やっぱりこれは大江広元のお墓なんだと感じました(`・ω・´)ゞ

伝大江広元の墓情報

年 代1225年没
住 所神奈川県鎌倉市浄明寺4丁目10
種 別史跡
入場料無料
営業時間
駐車場無し

伝大江広元の墓へのアクセス

伝大江広元の墓レビュー

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