大崎城 / 矢作城(千葉県)

大崎城 / 矢作城(千葉県)

大崎城(現地ではそぉ書かれていので)は矢作城とも云われ、本矢作城の城主第4代目の国分胤長の次男、国文泰胤が城替えして拠ったと云われています。大崎城/矢作城は本矢作城よりはるかに大きな城で、佐原へ向かうための交通の要衝だったため城を築いたんだと思います。
もともとこの大崎の地(大崎庄)は足利家の次男である斯波宗家が大崎庄を領有したが、斯波氏が奥州を本拠とするようになり移っていったため、国分泰胤はその後を受けて領主となったみたいです。

その後、千葉氏と共に北条氏の下に属していたが、房総から北上し侵攻してきた里見氏の家臣だった正木氏に攻められ1565年に落城してしまいます。正木氏は小見川を捨てて上総に引き上げたので、国分氏は再び城地を回復したが、天正14年(1586年)に再び正木軍の攻撃を受けて落城した。これはたぶん、上杉謙信と里見 義堯(さとみ よしたか)同盟し北条氏を牽制するために里見氏が攻めあがったんだと思いますが、上杉謙信の侵攻が遅かったため正木氏は一旦小見川を捨てて上総に引き上げます。 よって国分氏は再び城地を回復しますが、1586年に再び里見氏の正木軍に攻められ再び落城してしまいます。たぶん、国分氏は細々と大崎城/矢作城を奪還しようとしていたんでしょうけど、豊臣秀吉の小田原征伐が始まると大崎城/矢作城はあえなく開城!?!?その時国分氏は、常陸鹿島惣大行事のもとへ逃れて庇護を受け、のちに水戸家の食客となったと云われているみたいですね(。◕ˇдˇ​◕。)/

【大崎城/矢作城】

城内には若干ですが曲輪・土塁と空堀の跡が見受けられました。。。

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