伊達稙宗公の墓(福島県)

伊達稙宗公の墓(福島県)

はっきり云って、ここでこんなことを云うと批判されるのは重々わかってはいるのですが、私は人気のある伊達政宗よりもこの伊達稙宗の方がめちゃくちゃ興味があり好きかもしれません!( ̄▽ ̄)
伊達稙宗は伊達家13代当主の伊達尚宗の嫡男として生まれ、伊達稙宗の亡き後、14代当主を継ぎ、継いだその年に羽州探題(うしゅうたんだい)の最上義定を破り自分の妹を最上義定の室として送り込み、実質的に最上家の支配を実行していた様です。(それが後々の伊達家と最上家の確執に繋がっていくんでしょうね・・・)
足利義稙と一緒に上洛し細川高国と誼を通じ『左京大夫』に任官されます。『左京大夫』は従来は羽州探題大崎氏が世襲する官位であったが、この官位を伊達氏が獲得したことは実質的な実力が大崎氏に並んだことを、周りに認めさせるためには充分の影響を発揮できたと思われ、伊達稙宗は中央政権の力を利用し、奥州の葛西氏や岩城氏などと争い、これに婚姻外交を織り交ぜて勢力の急激な拡大に成功していきます!

そんな中、伊達稙宗は桑折西山城https://jh.irukamo.com/koorinishiyamajo/を築きます!(。◕ˇдˇ​◕。)/
築城と云えば織田信長が有名ですが、こんな早い時代にこんな大規模な山城を築き家臣団を城内や近くに住まわせ、街道の要所をしっかりと抑えさせる壮大な山城は初めて見ましたし、その思考は最高にイケテルって感じていますヾ(≧▽≦)ノ~♪

勢力を拡大する伊達稙宗は最上氏・相馬氏・蘆名氏・大崎氏・葛西氏を時には攻めたり時には婚姻でまとめながら従属させていきますが時が経つにいたって反発も出始めます・・・
今度は徐々に伊達稙宗の息子の晴宗との関係が悪化していきます・・・(´;ω;`)ウゥゥ 伊達稙宗がこれまで尽くしてくれた相馬 顕胤(そうま あきたね)に伊達領の一部となっていた相馬旧領の宇多郡・行方郡の一部を還付しようとしたが、この案に伊達晴宗が猛反発することになります!!!
これらをきっかけに、1542年頃についに鷹狩りの帰途を晴宗に襲撃され、捕えられた稙宗は一時桑折西山城に幽閉されますが、小梁川 宗朝(こやながわ むねとも)に救い出され、伊達稙宗は息子の伊達晴宗との争いに発展し『天文の乱』と云われるようになります。
徐々に伊達晴宗は優位となっていったため、伊達稙宗は家督を晴宗に譲って自分自身は丸山城/丸森城に隠居し終止符が打たれます。。。

そんな波乱に満ちた『伊達稙宗公の墓』が、陽林禅寺にありましたので行ってきました( `ー´)ノ

【伊達稙宗公の墓】

1513年に伊達稙宗によって開かれた『開基』と云われています(*´ω`*)

『伊達稙宗公の墓』です!!!(●´ω`●)

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