大阪の堺にある顕本寺(けんぽんじ)に三好元長公の墓がありました( `ー´)ノ
三好元長といえば、日本で初の天下人となった三好長慶(みよしながよし)の父親で、三好長慶の他にも、三好実休(兄の三好長慶が畿内で天下取りをしている間、故郷・阿波の統治と四国における三好家の勢力拡大を図った武将)、安宅冬康(三男の安宅冬康は大阪湾の制海権を握り、政権の『海』と『知』を支えた武将)、四男の十河一存(鬼十河の異名を持っており、阿波・讃岐の統治を任された猛将)らはいずれも名将とされ、三好一族の繁栄を伸ばしていった子供たちの父親です。
三好元長自身も本拠地の阿波を納めると畿内に打って出て、1526年の10月に阿波国で挙兵し足利義維(あしかがよしつな)を推して、当時主君だった細川高国を攻めて近江国に京から追放させます。細川高国から政権を奪ったら堺に堺幕府(堺公方)を樹立させ、細川六郎による新たな畿内支配体制を確立させるべく尽力しました。その後、山城守護代に任命されるが同僚と険悪な状況に陥ったため阿波国に一度引き上げます。三好元長が京に居ない間を突いて細川高国が伊勢国の北畠晴具と播磨国の浦上宗村と共に京に攻め上がります。1531年に細川六郎に頼まれ阿波国から8千人の兵を連れてきて細川高国たちを討伐するために動き、細川高国軍の中でも名門の赤松政佑が細川高国を裏切り、細川高国軍を壊滅状態にしてしまいます!(`・ω・´)ゞ
細川高国討滅から僅か2ヶ月後には堺公方派の内輪揉めが始まり三好元長は再び兵を挙げます。木沢長政を擁護しようとする細川六郎からの撤兵要請もあって、三好元長は兵を退きますが、木沢長政の野心を危険視する畠山義堯は、1532年5月に飯盛山城https://jh.irukamo.com/iimoriyamajo/を再度取り囲みます。三好元長もその支援に加わっため。木沢長政は不利な状況に陥っていましたが、数万の一向一揆軍が包囲軍の背後から襲い掛かったため、三好元長を含む包囲軍は退散!?!?北畠晴具は一向一揆軍に討たれてしまい、三好元長も足利義維を逃がすのに精一杯だったみたいなので、一向一揆軍の攻めは激しかったんだと思われます。
敗北の責任を取らされた三好元長は32歳の若さで自害させられます。その自害の様とは自身の腹をかっ捌いただけで終わらず、腹から取り出した臓物を天井に投げつけるという壮絶さだった様ですね!三好元長の気性・性格・憤りなどが恐ろしいほどわかるエピソードですね!<(`^´)>
【三好元長公の墓】
法華宗のお寺の『顕本寺』にお墓がありました。昔で云う堺の街の一角ですね






