高槻城/久米路山龍ヶ城/入江城(大阪府)

高槻城/久米路山龍ヶ城/入江城(大阪府)

高槻城は摂津国高槻村にあった平城で築城は不明ですが901年~100年頃にはあったみたいで、1874年の明治7年まで使用されていた驚きの城です!(;゚Д゚)
室町時代には入江氏の居城としていたため入江城と呼ばれていましたが、織田信長に入江氏が滅ぼされてしまうと和田惟政(わだこれまさ)が入城し居城とします。和田惟政は足利義輝に仕えていたが不信を買って和田村に蟄居させられていました。その頃、三好三人衆が足利義輝を襲い殺害してしまいます。和田惟政は偶然にもこのクーデーターから逃れることが出来たみたいです。
足利義輝の殺害を聞くと、和田惟政は興福寺監禁されていた足利義昭を細川藤孝と共に救い出します。脱出を成功させ甲賀郡にある和田惟政の館に逃れた後、足利義昭を矢島氏の館に移すなどした様ですね。足利義昭が織田信長の力を借りて将軍の座に付き京に戻ると、和田惟政は織田信長の家臣となり高槻城に入城し織田信長の政治や合戦に深くかかわり、足利義昭と織田信長の橋渡し的役割を務めていたようです。
三好三人衆と松永久秀が摂津国に侵攻してくると三好三人衆側の池田城https://jh.irukamo.com/ikedajo/近くに出陣します!和田惟政は白井河原の戦い(しらいかわらのたたかい)で討死してしまいます・・・和田惟政は首を取ろうとした相手にも傷を負わせて死去したとされていますね。壮絶武将です!( `ー´)ノ

和田惟政が討死すると和田家を息子の和田惟長(わだこれなが)が継ぎますか、和田惟長は先の白井河原の戦いで先陣を務めた和田惟政が討死すると、後備で控えていた和田惟長は弔い合戦どころか慌てて高槻城に逃げ帰ってしまい周りの諸将の信頼を失ったって云われています(´;ω;`)ウゥゥ
和田惟長は高槻城に逃げ帰った後、自身は信長に対する忠節の意を申し入れているで安堵するが、疑心暗鬼に陥っている和田惟長は叔父で後見役であった和田惟増を殺害し周りからの信頼を更に失ってしまいます。1573年には織田信長や家中の人望を集め出していた高山友照・右近親子を殺害しようとしますが暗殺計画は事前に漏れており、逆に高山友照・右近親子に殺されてしまい、高槻城は高山右近が入城し居城となります。荒木村重に属していた高山氏は高槻で4万石を領し高山父子は高槻城の修築工事を行い、石垣や塗り壁など当時畿内で流行しつつあった様式を取り入れた。
1578年に荒木村重が織田信長に反旗を翻すと高山右近は荒木村重と織田信長の間でゆり動きます。荒木村重の所に親族など人質を送り込んでいたからです。高槻城内も父の友照たちの徹底抗戦派(荒木村重派)と織田信長に従うべきとの派に別れてしまいます。そもそも織田信長を裏切る気が無かった高山右近は織田信長に領地を返上することで織田軍との戦いを回避し、高山右近は摂津国に出陣してきた織田信長に謁見し、愛用の小袖と名馬を拝領した様です。その後、荒木村重が籠る有岡城https://jh.irukamo.com/ariokajo/の攻撃に参戦します。高山右近は織田信長から引き続き高槻城主としての地位を安堵され、また、摂津国芥川一郡を宛がわれたと云われています。
本能寺の変後、羽柴秀吉の幕下にかけつけた高山右近と中川清秀は山崎の戦いで先陣を務め秀吉から加増を受け、その後、摂津国の高槻から播磨国6万石を与えられ明石の船上城に入城ます。
1587年に豊臣秀吉が『バテレン追放令』を執行すると熱狂的なキリシタンだった高山右近は小豆島に追放されてしまいます。1588年に前田利家に預けられ加賀国金沢に移されるが囚人のような扱いを受けていたとされますが、豊臣秀吉は高山右近を復帰させようとしますが高山右近は棄教を拒否していたため断念したようですね。
1614年に徳川家康が『キリシタン国外追放令』を受けて前田家のから加賀を退去し国外追放されてしまいます。高山右近はマニラに行の船に乗せられマニラに到着しますが、高齢(63歳)だったこともあったんだと思いますが、高山右近はマニラに着いて40日後に亡くなってしまいます!

高槻城は現在城址公園として整備されています( ̄▽ ̄)
現在は島上高校の脇に城址碑が残されているだけで、城址公園には出土された石垣が復元されているので少しだけ感じが残っています。

【高槻城】

高山右近の像です!(`・ω・´)ゞ

がっつり公園ですなぁ~(;´Д`)~苦笑 石垣が少し城らしさを表現してくれています!

お城カテゴリの最新記事