実は・・・紀伊国で行きたかった城のひとつがこの『太田城』です!(`・ω・´)ゞ
あまり知られてはいませんが、日本三大水攻め(備中高松城・忍城・そしてこの太田城)のひとつとされています。太田城は紀氏が1489年~1492年頃に紀伊国造(『きのくにのみやつこ』『きいこくそう』と云われる紀伊国を支配した国造の神別)の紀氏第64代 紀俊連 が神領保護を目的として『秋月城(近くにありましたがスーパーになってて跡形も無かったです( ノД`)シクシク…)』『三葛城(Webでも発見できませんでした( ノД`)シクシク…)』そしてこの『太田城』を築城したと云われています。
太田城は平城ですが、現在の来迎寺・玄通寺を中心に東西約270mあり南北に約220mあったとされ、その周辺にはぐるりと深い堀と土塁があり城門も四方に設置し各所には複数の高い櫓もあるなど、当時では相当な総構えの平城だったと思われます。そんな強力な太田城にしたのは1576年に改築(大きく築城)させた太田左近だと云われています。
太田城の攻城戦は『1577年の第一次 太田城の戦い』と『1585年の第二次 太田城の戦い』で、有名な水攻めは豊臣秀吉に攻められた『第二次太田城の戦い』です( `ー´)ノ
あと、太田城の戦いで面白いのが第一次と第二次で戦いの背景が大きく違うところです(◎o◎)???
第一次太田城の戦いは織田信長が雑賀城https://jh.irukamo.com/saikajo/攻めを行った際に、太田左近を党首とする宮郷衆らはなんと!織田信長側に付いて支援を行います。うまくいかず織田信長が紀伊国から撤退すると、怒った雑賀衆たちは太田城を攻撃します!これが第一次太田城の戦いです(;゚Д゚)
結局、鈴木孫一を党首とする雑賀衆は総構えの太田城を攻め落とすことが出来ず太田左近と和解し第一次太田城の戦いは終わります・・・因みに、太田城を助けようとした織田信長は佐久間信盛に8万の軍を付けて支援に行かせますが雑賀衆たちに負けてしまい撤退したそうです・・・失笑
第二次太田城の戦いは本能寺の変で織田信長が亡くなった後に豊臣秀吉と徳川家康が戦った小牧・長久手の戦いにおいて、太田左近は徳川側に付き豊臣側の岸和田城を攻撃するなどを行っていました。秀吉と家康が和解し小牧・長久手の戦いが終わると、1585年に豊臣秀吉が総大将になり羽柴秀長・羽柴秀次を副将として10万の大軍で出陣し、千石掘城https://jh.irukamo.com/sengokuborijo/から太田衆・雑賀衆・根来衆連合軍の諸城を次々に落城させていき、孤立無援となった太田城と太田左近は籠城し戦いますが、秀吉軍は紀の川の水をせき止め、城から300m離れた周囲に堤防を築き(当時の鉄砲の射程距離が300mだと云われていたからかな?)、堤防の長さは約6kmにも及んだと云われています。不運にも堤防を築いた後に数日間大雨が降り続け水量が増したため城の周りは浮城のような状態になった様です。
水で囲まれた太田城に羽柴秀吉軍は中川藤兵衛に13隻の安宅船(あたけぶね)で攻めさせたと云われていますから、相当な規模の水攻めが行われ深さもそーとーあったんだと思いますね!(+_+)
太田城もよく奮戦していましたが水攻めが1か月以上経つと精神的にも物資的にも萎えてしまい、蜂須賀正勝(小六)・長野長康の説得に応じて太田城は開城・・・太田左近をはじめとする53名は自害させられます。53名の首は城の三か所に埋められた。現在の玄通寺の近くに『小山塚https://jh.irukamo.com/post-38227/』という大きな碑が建っていますが、首を埋めた三か所のうちの一か所だとされています。
【太田城】






