真田兄弟の墓 / 真田信綱・真田昌輝・禰津是広・常田春清・鎌原之綱の墓の感想
元々は・・・『真田兄弟の墓』を見つけ興味がわき、この『長篠・設楽原の古戦場』に来たんです!
真田信綱・真田昌輝(真田兄弟)は、真田幸綱(俺が最も尊敬している)の長男が信綱・次男が昌輝、三男があの有名な昌幸(真田丸で有名な真田幸村、俺が超好きな幸村の兄貴の真田信之の父親)、四男が信尹(『のぶただ』と呼びます。この武将もまたあまり知られていないのですが、『生き残る術』『参謀術数』は兄貴の昌幸以上だと俺は思ています)となっており、この時、長男の真田信綱は真田幸綱から家督を継承し、正真正銘の真田氏を率いる立場にあったと思われます。
真田兄弟は武田二十四将のひとりに数えられており、長篠・設楽原の戦いにおいては、大宮前の丸山一帯で激しい戦いをくりひろげ、佐久間信盛が守る丸山砦を目がけて、 武田軍の騎馬隊は猛攻撃を加え多くの戦死者を出した。 真田兄弟の騎馬隊は続く第二陣・第三陣となり、飛びかう敵の銃弾をかいくぐって突進し、 第一柵を破り、さらに第二柵に取りかかる勢いであったと云われていますが、兄の信綱は銃弾を受けて戦死し弟の昌輝も傷を負った。
やがては武田勝頼もジワリジワリと後退し撤退となり、「大」の文字の旗指物(はたさしもの)が甲斐へと撤退する姿を見ると、既に討ち死にした兄の信綱を抱え、撤退する武田勝頼を見送った昌輝は、やむなく本隊の退却を援護するため群がる敵を引き寄せて戦いながら退き壮烈な死を遂げたと云われています。
真田兄弟の墓には一緒に禰津氏・常田氏・鎌原氏の武将が眠っており、
・禰津是広・・・禰津幸直が有名、是広は息子ではなく孫なのか何なのか?けど真田氏の重臣であったと思われます。
・常田春清・・・常田隆永が有名、隆永は幸綱の兄弟で常田氏に養子となっており、常田春清も孫なのか何かで真田氏の一門衆だったと思われます。
・鎌原之綱・・・神原重春が有名、重春の父である鎌原重澄は同じ同族の羽根尾(羽尾)氏(羽根尾入道幸全)と戦をはじめ、真田一族の着実な一歩に貢献した一族です。
真田氏の中枢組織がここで崩壊したことがわかりますね。。。
真田兄弟の墓 / 真田信綱・真田昌輝・禰津是広・常田春清・鎌原之綱の墓画像ギャラリー
真田兄弟の墓は(第二)新東名高速『新城IC』を降りて田園風景が広がる山沿いの小さな丘の上にあります。
なるほど・・・ここは『三子山』って云うんだ~
この一帯の田園を見下ろすカタチで、真田信綱・真田昌輝・禰津是広・常田春清・鎌原之綱の墓(真田兄弟の墓)はありました。
向かって右側の面には『真田信綱』の名がわかりますね。。。
向かって左側の面は『真田昌輝』ですねぇぇぇ。。。。。。。
禰津是広の墓
常田春清の墓 『図書』は歴代引き継ぐのであろうか?
鎌原之綱の墓 少し格の違い(一族感)が出ていますね。。。
鑓畑と武田軍退路
真田兄弟の墓の近くに『鑓畑と武田軍退路』の跡があります。武田軍が撤退するにあたって、織田軍が執拗に激しい猛攻を掛けたことがわかります。この辺一帯の田園には『鏃(やじり)』がたくさん残っていたんだと思われます。それだけ壮絶な場所に『真田兄弟の墓』はあります。
真田兄弟の墓 / 真田信綱・真田昌輝・禰津是広・常田春清・鎌原之綱の墓情報
年 代 | 1575年 |
住 所 | 愛知県新城市有海篠原21−50 |
種 別 | 史跡 |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 無し |