島津貴久の灰塚の感想
島津貴久公は加世田のこの地で父親の日新公同様に亡くなり荼毘に伏されたとのことです。
貴久のお墓としては福昌寺跡の島津家墓所にあります。
この灰塚がどうなのかはよくわかりませんでしたが、一般的に灰塚は荼毘に伏した時の棺など一緒に燃やしたものを塚として埋葬したものになります。なので遺骨などはこの場所には埋葬されていないと思われます。島津貴久の灰塚ですが、貴久の息子、島津義久が釈迦院を建立して建てたものみたいです。
島津貴久は激動の一生だったのではないかと思います。父、日新公(忠良)の元に生まれ、薩摩3州統一を課され父と共に幼少から戦い続けます。( *`ω´)/
宗家が弱体化していたため、貴久を当主にするべく日清公は貴久を島津勝久の養子とさせます。貴久は島津勝久から当主を継いだことで島津実久との長期にわたる当主としての家督争いがこれにより勃発します。このとき貴久はまだ14歳だったとのことです。
実久との家督争いに終止符が打たれた後も薩摩統一に奔走し、1557年蒲生城を落城させて大隈を支配下に入れる流れを作り、1566年53歳の時に息子「義久」に家督を譲ります。その2年後1568年に父、日新公が亡くなり、後を追うように3年後の1571年58歳でこの世を去りました。その後、貴久の息子たちも島津4兄弟として有名ですが有能な武将に育て上げ戦国島津家の地位を確立していきます。
この父亡くして島津4兄弟は生まれてこなかったと思うとその功績が光ります。
そんなすごい武将の灰塚なのに訪問した時には薮だらけで灰塚には近づくのが困難な状況だったのが残念でした(;_;)
島津貴久の灰塚画像ギャラリー
藪に埋もれている島津貴久の灰塚の説明版を発見!!
えー島津貴久がこんな扱いなの??って思ってしまったのは自分だけでしょうか😭
この案内板だと島津貴久は1572年に亡くなったと書かれていますね?1571年が一般的に言われている亡くなった年だと思うのですが。どうなんだろ?

なんとか灰塚が埋もれずに見えてますが、実際にいくと薮を掻き分けて入っていくくらいの状況でした。

きっとタイミングが違えば綺麗に整備されている時期に訪問できたのかもしれないですね( ;∀;)

島津貴久の灰塚情報
| 年 代 | 1571年没 |
| 住 所 | 鹿児島県南さつま市加世田武田 |
| 種 別 | 史跡 |
| 入場料 | 無料 |
| 営業時間 | – |
| 駐車場 | 有り(無料:武田神社駐車場に停められます) |
島津貴久の灰塚へのアクセス
島津貴久の灰塚レビュー
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