島津義弘居館跡/御屋地跡(鹿児島県)

島津義弘居館跡/御屋地跡(鹿児島県)

島津義弘居館跡/御屋地跡の感想

島津義弘居館跡へ行って来ました!島津義弘が松尾城からこの帖佐へ移ってきて建てた館になります。現在は稲荷神社になっていました。石垣は当時のもので復元?使用されているみたいでノミで石を割った後など当時の痕跡が残っています。
1595年に松尾城から島津義弘が移ってきて1606年まで義弘の居館として使われます。島津義弘が平松城へ移った後は、御屋地様(おやじさま)が居館として使われるようになります。御屋地様は島津義弘の娘で島津朝久(しまづともひさ)に嫁ぎますが、島津朝久が朝鮮と戦った文禄の役で亡くなったためにこの居館に住むようになったとのことです。その他にもこの居館に、島津豊後守久賀・島津忠広なども居住したとのことです。
近くには小学校になってしまっておりますが、帖佐地頭仮屋平松城もありますのでこちらも行ってみるのをおすすめします。

今更「島津義弘」について書くのはどうかと思いますが、島津4兄弟の次男で戦国島津と言えば義弘と言うくらい人気のある武将です。武功はいっぱいありますが、勝ち戦ではないですが一番有名なのは関ヶ原で西軍として戦い、西軍の負けが伝わると、義弘は死を覚悟したそうです。ただ、島津義弘の甥で島津4兄弟の一人、家久の息子「島津豊久」に説得されて薩摩への帰郷を決意。義弘は撤退するときに敵陣突破をして薩摩まで生きて変えった逸話、「島津の退き口」が有名かと思います。個人的には島津の退き口の小説を読んで島津家の中で義弘好きになりました笑、でも一番はこの義弘に生きて帰るように説得した「島津豊久」が戦国島津の武将の中で一番好きですね☺️
島津豊久は殿(しんがり)を務め、「捨て奸(すてがまり)」という戦法を取り自ら義弘を生きて帰す盾となり討ち死にしてしまうのですが、生き様がカッコ良すぎますよね!!
関ヶ原の記事で島津義弘の陣にも行っているので興味ある方は見てみてください。

話が逸れたのでこの辺りにします。

島津義弘居館跡/御屋地跡画像ギャラリー

現在は稲荷神社になっていて鳥居が目印です。

島津家の家紋がありますね。

遺構らしきものはほとんどないですがなんか歴史ある雰囲気は感じますね。

戦争の慰霊碑ですかね?

稲荷神社

井戸跡

たぶんこれが井戸跡ですかね?特に説明や案内などは見当たりませんが。。

惟新公(いしんこう)邸趾之碑

惟新公(いしんこう)は島津義弘の別名なので、島津義弘の居館跡の意味になります。

島津義弘説明板

こんなに情報を詰め込んだ説明板初めてみました😅
薮になってしまっていて高いところにあり、少し離れたところから写すしかなく何が書いてあるのかよくわからないところもありますがご容赦下さい🙇

礎石

大手門跡

石垣

角が丸くなっていました。鬼門とかで丸くしたんですかね?たまたま??

花園寺跡公園

義弘が看経所(かんきんしょ)経文を黙読する場所として使用されていた場所とのこと。島津義弘居館跡のすぐ隣にあります。島津義弘居館跡には駐車場がないのでここの駐車場に停めさせてもらいました。
名前の由来ですが、江戸時代の初め頃に花園寺(かえんじ)が建立されたので花園寺跡公園になっているみたいです。

花園寺跡の説明板

展望台

(左)花園寺跡の全景と(右)花園寺跡の奥に見えるのが島津義弘居館跡になります。木が多くて分かりづらいですね(^^;;

島津義弘居館跡/御屋地跡情報

築 城1595年
城 主島津氏
住 所鹿児島県姶良市鍋倉
種 別平城
廃 城1606年
特 徴市指定史跡
入場料無料
営業時間
駐車場有り(無料:花園寺跡公園の駐車場に停められます)

島津義弘居館跡/御屋地跡へのアクセス

島津義弘居館跡/御屋地跡レビュー

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