高橋紹運公の墓(福岡県)

高橋紹運公の墓(福岡県)

高橋紹運公の墓の感想

前回の『岩屋城』のレポートにも記載しましたが、岩屋城で壮絶な討死をした高橋紹運と家臣団のお墓が、岩屋城の二の丸付近にあります(`・ω・´)ゞ

高橋紹運の大体の流れは前回にも記載しましたが、武将・人物としてもとても優れており、個人的には本当に大好きな戦国武将です。(そんなに有名ではありませんが知る人ぞ知るって感じです)
高橋紹運が、高橋家を継いだのは22歳の時だと云われています。その頃の大友氏の勢力は九州北部を席巻し拡大していました。大友家の名将立花道雪(戸次鑑連(べっきあきつら))の与力として筑前国・筑後国の支配に尽力します!!!(立花道雪もこれまた私が大好きな武将です!道雪の名も思いが素敵ですが、それは別の時に!)高橋紹運もきっと立花道雪を『親父』『師』と仰いで尊敬していたと私は思っています(⌒∇⌒)  特に立花道雪が率いる立花軍は日頃の士卒への配慮によって培われた部隊で鉄の、結束力を誇る唯一無二の精鋭集団だったと思われます。無論、立花道雪を師と仰ぐ高橋紹運の部隊も同様に精鋭集団だったと思われます。
高橋紹運は立花道雪と並び『大友家の双璧』と呼ばれるようになっていったようで、『雷神』と呼ばれ恐れられた立花道雪に対し、高橋紹運は『風神』と称され『両武神』として敵から恐れられた様です。その後、大友家が滅亡寸前にまで追い込まれていきますが、衰退する大友氏の支配地域で最後に残った拠点は、大友宗麟の居城・丹生島城(にゅうじまじょう:大分県臼杵市)周辺の領国と、筑前国に点在する高橋家・立花家の居城のみでした。この筑前国が最後まで大友家の領土であり続けたのは、ひとえに高橋紹運と立花道雪の手腕によるものだと云っても過言ではないでしょう( `ー´)ノヨッシャー♪

勇将・忠将・猛将のイメージが強い高橋紹運ですが、彼の人柄(人間としての姿勢)が出ていることもあり、高橋紹運の妻は大友氏の重臣 斎藤鎮実(さいとうしげざね)の妹(娘との説もあり)とされています。斎藤鎮実は大友宗麟と歳が近く、大友家にあって唯一、立花道雪と共に大友宗麟に物申すことが出来る人物だとされています。そんな人物の娘を娶ることは、高橋紹運を大友宗麟はいかに重要視していたかがわかります。しかし、婚約はしたものの戦続きでなかなか祝言をあげることが出来ない中、斎藤鎮実の妹は天然痘にかかり顔に醜いあばた(水疱)が出来てしまいます。斎藤鎮実は断腸の思いで『娘の顔が醜くなってしまったので、婚約を辞退したい』と輿入れを断りに行きます。しかし、高橋紹運は『斎藤家は代々武門の誉れ高い家柄。断る理由などありましょうか。容姿の美醜などまったく気にしません』と言い放ち、斎藤鎮実の妹を正妻として迎え入れ、嫁いだ斎藤鎮実の妹も大切にされた様です。こうして生まれたのが、のちに『鎮西一の武将』と称される立花宗茂(高橋紹運の子として生まれ、立花道雪に見込まれ一人娘の誾千代(ぎんちよ)と結婚し立花家に養子として入ります)です!
高橋紹運の器量が大きかったからこそ名将の系譜は受け継がれていったのかなぁ~?って思います。

高橋紹運公の墓画像ギャラリー

『高橋紹運公の墓』は岩屋城の二の丸だった場所にあります。
四王寺林道を登っていくと途中右手に『岩屋城』案内が出てきます。その反対側(向かい側)左手に『高橋紹運公の墓』がありました。

道路から二の丸方面に降っていきます!

見えてきましたねぇぇぇ~

高橋紹運公と家臣団のお墓です(*´ω`*)

むむむ・・・・高橋紹運公の墓石が無い・・・・・・(´;ω;`)ウッ… なぜ???

隣りに石碑があるのですが・・・何が書かれているのか全然わかりましぇん!(´;ω;`)ウゥゥ

小さな石垣で墓石は囲まれていました。この墓石の中に家臣団たちのお墓もありました。

是非!皆さんも高橋紹運を感じに来てください!(`・ω・´)ゞ

高橋紹運公の墓情報

年 代1586年
住 所福岡県太宰府市観世音寺704
種 別史跡
入場料無料
営業時間
駐車場無し

高橋紹運公の墓へのアクセス

高橋紹運公の墓レビュー

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