玉縄城の感想
玉縄城はずっと行ってみたかった城です!残念ながら玉縄城全体は住宅地と本丸には中学校が建設されており全体を楽しむことはできません(´;ω;`)ウゥゥ しかし、相模国の支配を始めた北条早雲にとっては、この鎌倉の北に位置する玉縄城は鎌倉を管理をするためにも重要な役割を果たさせる城でなかったのではないかと思います( `ー´)ノ
玉縄城は北条早雲が1512年に築いた城だと云われていますが、もともと何処かの砦があり改良しながら築いた城なんかじゃないかと思われます。当時はもっと海が内陸側に入り組んでいたのではないかと思われ、柏尾川と一体となっている玉縄城は相模湾まで船を出すことが出来る水軍の拠点の意味もあったのではないでしょうか?(玉縄城の西方面にはその名残を残す『大船』という地名があります)
また、鎌倉に隣接していることもあり、三浦半島に本拠を置く相模国の最大勢力である三浦氏を攻略するための鎌倉防衛の意味合いも残っている拠点として築かれた城だとわかりますね(=゚ω゚)ノ
城主には早雲の次男、北条氏時をはじめとして、代々小田原北条氏の近親者が務めましたが、特に自分が印象に残っている武将が黄八幡で有名な北条綱成で、その後玉縄城を三代にわたり城主を務めていていました。北条家きっての猛将北条綱成は川越夜戦(川越城に長期にわたって籠城し討ってでます)や国府台合戦、三増峠の戦い、深沢城の戦いなど各地で戦うツワモノです(o^―^o)ニコ
築城し約80年間落城していませんが、豊臣秀吉の小田原征伐の際に落城し、その後は徳川家康の傘下となり、本多正信・水野忠守が入城し居城としたが、1615年に『一国一城令』のため玉縄城は廃城になってしまいました。
里見氏や上杉謙信・武田信玄も攻め込んだ際に難攻不落過ぎて落とすことが出来なかった平山城なだけに、廃城にするにはもったいない城だったと思います!
玉縄城画像ギャラリー
玉縄城の東北方面に玉縄城三代目城主 北条綱成が龍寳寺(りゅうほうじ)を開基しましたが、四代目城主北条氏勝が北条氏繁(北条綱成の長男)を弔うため現在の地に移したようです。龍寳寺にも玉縄城の情報が沢山ありました!










案内にあった『七曲坂』に向かってみます( `ー´)ノ







ここは曲輪の跡があったのかもしれません。今は公園になっています。

さてさて、『七曲坂』と『七曲殿』へ向かってみましょう~♪(#^^#)




七曲坂の入口です! なるほど!急こう配をくねくねくねくね道が曲がっていきます!
今は整備されていますが、元々は厳しい七曲だったことがわかりますね~





途中には『武者だまり』があります。玉縄城への侵入を防ぐ防衛ラインなんでしょうね!



本丸付近の住宅地に出てきました!


本丸の隣には『玉縄城 太鼓櫓跡』がありました(⌒∇⌒)








大きな曲輪の様になっています。下を見下ろせば藪に囲まれていますが大規模な空堀が築かれているように感じますね!








本丸には現在、泉女学院中学高等学校が建っています。本丸は学校の敷地内であるため、見学したい場合は事前に学校の許可が取れれば可能らしいですが・・・自分にはハードルが高いなぁ・・・(+_+)


写真を撮っていたら、周りの近所の方々からめちゃめちゃ怪しまれていましたぁ~(´;ω;`)ウゥゥ
玉縄城情報
築 城 | 不明(1512年ごろ?) |
城 主 | 北条氏、本多氏、水野氏 |
住 所 | 神奈川県鎌倉市城廻200 |
種 別 | 平山城 |
廃 城 | 1619年 |
特 徴 | – |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 有り(無料:玉縄歴史館) |
玉縄城へのアクセス
玉縄城レビュー
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