田辺城/田辺城水門の感想
田辺城はすでに残っていませんでした。
田辺城が無い代わりに当時を感じさせる『田辺城水門』が残されており石垣や城内への用途など当時を思わせる水門跡です。
田辺城は関ケ原の合戦後、紀伊国に浅野幸長(よしなが)が入国し、その浅野氏の重臣である浅野氏重が『湊城』を築いたとされています。その後、1619年(元和5年)に福島正則が改易されると、浅野氏は安芸広島42万石に加増移封となり安芸へ移っていきます。
その後は、徳川頼宣が紀伊国(紀州藩)に入国することとなり、徳川家康が年少時代から仕えていた武将で家康からの信頼が厚く徳川頼宣付けの重臣家老になった安藤直次が田辺領主となり田辺城を築き、会津川の東側に今でも残る田辺城水門も築いたようです。
田辺城は田辺藩と共に明治維新まで続き、今は城跡には『上屋敷町』と地名に名残を感じさせた住宅地となっています。城も石垣を備えた館のような城であったんではないかと思われます。田辺城水門は海から会津川、そして城内へ物資を運ぶ重要な水門だったんでしょうね。(^▽^)/
田辺城/田辺城水門画像ギャラリー
田辺城水門の正面まで行ってみました。
会津川の先には南紀白浜の海が広がっています♪きれいです♪
ここで意外な発見がぁ・・・((´∀`))ケラケラ
どうやら和歌山県田辺市は弁慶の生誕の地みたいですね( ´∀` )
なので早速、紀伊田辺駅前に行ってみました。
ありました!!!!!!!武蔵坊弁慶の像です(^▽^)/♪
事実はどうなんだかわかりませんが、弁慶はこの田辺市で誕生したらしく、 一説によると弁慶は熊野別当の嫡子であったとか!??? 幼名は鬼若と言い、母の胎内で18ヶ月過ごし、生まれたときから2~3歳の体格で、髪は肩まで伸び、歯も生えそろっていたという話があるそうです・・・・嘘だぁ~大爆笑((´∀`*))ヶラヶラ
田辺城/田辺城水門情報
築 城 | 1606年 |
城 主 | 浅野氏、安藤氏 |
住 所 | 和歌山県田辺市上屋敷3丁目6−52 |
種 別 | 平城(水城) |
廃 城 | 1870年 |
特 徴 | – |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 無し |
田辺城/田辺城水門へのアクセス
田辺城/田辺城水門レビュー
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