友田興藤の墓(広島県)

友田興藤の墓(広島県)

友田興藤の墓の感想

友田氏はもともとは佐伯氏だった様ですね。安芸国佐西郡桜尾城主であったとされ、後に友田村に住み友田氏と名乗ったようです。
友田氏は代々厳島神社に関わり合いを持ちながら、大内義興と共に京に上り西軍側として戦っているが1518年に大内義興と共に友田興藤も帰国した際に、大内義興に神主職の裁定を愁訴したみたいですが、大内義興は桜尾城や己斐城に城番を送り込んで神領(厳島神社領)を接収してしまいます。それに反発した友田興藤は佐藤銀山城の武田光和の力を借りて接収された城の奪取に成功し、桜尾城に入城して神主を自称してから尼子氏の安芸国侵攻に合わせて、大内方の城を攻め落としたりもしています。
厳島神社の軍用拠点と富を狙う大内氏は、第一次・第二次桜尾城の戦いを展開し、友田興藤は最後、自ら城に火をかけて自害して滅んでしまいました。

友田興藤の墓画像ギャラリー

皮肉にも、自分を滅ぼした大内側の陶晴賢の墓の近くに友田興藤の墓もそこにはあります。広島の廿日市にある『洞雲寺』ありました。。。けどよく見ると、毛利方の桂元澄風風の墓や穂田元清夫婦の墓などあり、この洞雲寺はカオス状態ですねぇ~((´∀`*))ヶラヶラ

『友田興藤の墓』です!すぐ近くには『陶晴賢の墓』もあります。

友田興藤の墓(洞雲寺)情報

創 建1487年
本 尊釈迦如来
住 所広島県廿日市市佐方1071−1
種 別寺院
特 徴
入場料無料
営業時間
駐車場無料

友田興藤の墓(洞雲寺)へのアクセス

友田興藤の墓レビュー

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