伴城の感想
伴城(ともじょう)は伴氏の居城で安芸武田氏の一族とされています。伴氏は安芸武田氏の庶流で南北朝時代頃に分流したといわれ、武田家中でも一門として勢力を持っていました。
伴城は現在の広島市安佐南区沼田町伴にあり、3つの山城から成り立っていたとされ、まとめて伴城と云うみたいですね。。。たぶん。。。
伴城は安芸武田氏の居城だった佐東銀山城の裏手にあり、本流の安芸武田氏、及び、佐東銀山城を裏手から守る役目がある支城としての役割があったと思われ、伴城の存在が佐東銀山城を難攻不落の山城として強い影響力を出していたんだと思いました。
現在は跡形も無く山が削られ3つの山城は住宅地や団地となってしまい、まったく伴城がどんな状況だったかわかりませんが、住宅地・団地を開発する際には石垣や館跡の穴、土器や銭が見つかっていたとされています。詳しくは(まぁ~そんなに詳しく知りたい人はいないと思いますがぁ・・・失笑)、『(財)広島市未来都市創造財団文化学部文化財課の『伴東城跡発掘調査報告書」』をご覧いただければと思います!!!(モノクロですが写真が残っていました!)(=゚ω゚)ノ
伴氏の中でも名が挙がる武将に伴繁清 / 武田繁清(とも しげきよ / たけだ しげきよ)がいます!
伴繁清は安芸武田氏の佐東銀山城主である武田元繁の子とも弟とも云われている人物で、1517年に起きた有田中井出の戦い(西の桶狭間)では、援軍に駆け付けた毛利軍(毛利元就の初陣)に猛将の熊谷元直が討取られ、最後には総大将であった武田元繁さえも討ち取られてしまい攻め込んでいた武田軍は崩壊してしまいます。。。その後、伴繁清は武田元繁の遺児の光和を支え大内氏や毛利氏と激しく戦うこととなります。
1541年に出雲国の尼子詮久が毛利討伐のため『吉田郡山城の戦い』が起きると、安芸武田氏は尼子氏の援軍として動き始めますが、尼子軍が敗れて撤退すると当時当主だった武田信実は尼子の援軍と共に出雲国に逃亡、残った安芸武田氏は武田信重を擁立し佐東銀山城に籠り伴繁清も伴城に籠りますが、翌年に毛利氏らの攻撃を受けて両城は落城、武田信重は自害し伴繁清は討死したとされています。
因みに・・・鞆繁清の孫(武田信重の子息)が伴城から脱出するが、この遺児がのちのち成長して安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)となり、毛利家や豊臣家と深い関係を残していくので、本当に歴史の不思議な巡り合わせは面白いと感じていました!(^▽^)/
伴城画像ギャラリー




伴城情報
築 城 | 不明 |
城 主 | 伴氏 |
住 所 | 広島県広島市安佐南区伴中央6丁目3−22 |
種 別 | 平山城 |
廃 城 | 不明(1541年頃?) |
特 徴 | – |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 無し |
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