土屋昌続(昌次)討死の地(愛知県)

土屋昌続(昌次)討死の地(愛知県)

土屋昌続(昌次)討死の地の感想

土屋昌続(昌次)は武田二十四将のひとりとされ、金丸寅義の次男として生まれ平八郎と名乗っていたが、成長とともに武田信玄から『昌』の文字を貰い『金丸昌続(昌次)と名乗り、後に真田昌幸・三枝昌貞・曽根昌世・甘利昌忠・長坂昌国らと『奥近習六人衆』とされる信玄直属の若手側近として活躍する。初陣は真田昌幸と同じ第四次川中島の合戦であったため(一番激しい戦い)真田昌幸と共に武田信玄を上杉謙信から守り切る。この川中島の戦いの功績により、名族の土屋家を継ぐこととなり、土屋昌続(昌次)となる。

武田信玄が阿智村駒場で没すると、土屋昌続(昌次)は殉じようするが高坂昌信に説得され止められたらしいです。武田信玄の首を甲斐の自宅まで持ち帰り庭先に埋葬し今でも武田信玄の墓地と立っているようですが、埋葬して3年後に武田信玄の亡骸は掘り起こされ信玄の菩提寺である恵林寺に正式な墓を移した様ですね。

その後は武田勝頼に従い各地を転戦し、この長篠・設楽原の合戦の際は、武田四名将と言われた山県昌景・馬場信春・内藤昌秀たちと共に撤退を武田勝頼に進言するが勝頼は決戦を決めたため、土屋昌続(昌次)はこの地で果てることとなる。。。

長篠・設楽原古戦場の馬防柵の一番奥の『土屋右衛門尉昌次戦死之地』という碑があります。
土屋昌続(昌次)はとんでもない防衛ラインを突破し最後の馬防柵に取り付き『大音声』を発したとされています!!!壮絶な切込みによる討死だったんだと感じます。。。

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土屋昌続(昌次)討死の地情報

年 代1575年
住 所愛知県新城市大宮清水1−9
種 別史跡
入場料無料
営業時間
駐車場有り(設楽原歴史資料館第三駐車場:無料)

土屋昌続(昌次)討死の地へのアクセス

土屋昌続(昌次)討死の地レビュー

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