土屋昌続(昌次)の墓の感想
長篠・設楽原の古戦場から小高い丘を越えた反対側に『土屋昌続(昌次)の墓』があります。
土屋昌続(昌次)は最も若い武田二十四将のひとりとされ、馬場隊・真田隊と共に右翼側の馬防柵を突き崩し、第一・第二馬防柵を突破して第三の馬防柵(最終防衛ラインかな???)取り付き大音声を発し討ち死にしたと云われています。土屋昌続(昌次)討死の地についてはこちら
土屋昌続(昌次)は元々、金丸筑前守虎の次男平八郎として生まれ、武藤喜兵衛(のちの真田昌幸)、三枝昌貞、曽根昌世、甘利昌忠、長坂昌国らと共に『奥近習六人衆』のひとりとなり、武田信玄の側近として、また、武田家の将来の幹部重臣として直接教育を受けていた様ですね。武田信玄は奥近習六人衆を寵愛し、それぞれに『昌』の字を与えたみたいで、平八郎にも土屋昌続(昌次)と『昌』の字を与え名乗らせています。また、土屋昌続(昌次)は奥近習六人衆の中でも特別であったみたいで、御膳担(歌会では信玄の隣に座ることを許された)であったみたいです。公の場で武田信玄の隣に座ることが許されるなんて美男子だったのかもしれません!!?
美男子であり猛将であり土屋昌続(昌次)ってすごい人だったんだろうなぁ~って思いました!
土屋昌続(昌次)の墓画像ギャラリー
土屋昌続(昌次)の墓情報
年 代 | 1575年 |
住 所 | 愛知県新城市八束穂951−3 |
種 別 | 史跡 |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 無し |
土屋昌続(昌次)の墓へのアクセス
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