敦賀城の感想
敦賀城は人気の武将!大谷吉継でご存じの方も多くいらっしゃると思うのですが、築城は織田信長が越前を平定し、その後、本能寺の変で織田信長が謀殺されると羽柴秀吉が明智光秀を討ち、越前には羽柴秀吉の家臣、蜂屋頼隆が越前国敦賀に入国し三層の天守を持つ敦賀城を築城したと云われています。蜂屋頼隆は元々織田信長の古くからの家臣で、近江国肥田城や和泉国岸和田城などの城主を任されたのち羽柴秀吉に預けられ敦賀城を築城し城主となり、羽柴秀吉から『羽柴姓』を名乗ることを許されると『羽柴敦賀侍従』と称し、羽柴秀吉の転戦に従軍したとされています。蜂屋頼隆が九州平定中の56歳で病死すると、代わりに大谷吉継が1589年に敦賀5万石で越前国敦賀に入国し敦賀城の城主となっています。
大谷吉継が敦賀城主になると、敦賀城を水城として大改修します。敦賀が小国ではありましたが、朝鮮との貿易湊としての位置づけや、京都・大阪への物資供給などの物流拠点として重要な役割を果たす拠点だったんだと思われます。また、後に豊臣秀吉が仕掛ける朝鮮出兵の際には敦賀の湊が兵粮・船・操船者を整える拠点としても機能することになったようです。そのためにも敦賀を『城のある港湾都市』に築き直す必要があったんでしょうね。
その後、大谷吉継が石田三成の西軍に付き関ケ原の合戦で敗れてしまします。
関ケ原の合戦後は、結城秀康によって敦賀城に代官を派遣され管理されますが、京極高次・酒井忠勝が若狭国で小浜城を築いていた事や、1616年に『一国一城令』に伴って敦賀城は廃城となったようです。
敦賀城画像ギャラリー
敦賀城は現在の福井県敦賀市結城町にある(益田山)真願寺に少しだけ面影が残っていました。周りには内堀の跡が水路の様に残っており名残を感じます。





敦賀城跡標識
境内に『敦賀城跡』の標識があります。




敦賀城情報
| 築 城 | 1583年 | 
| 城 主 | 蜂屋氏、豊臣氏?、大谷氏 | 
| 住 所 | 福井県敦賀市結城町14−1 | 
| 種 別 | 平城 | 
| 廃 城 | 1616年 | 
| 特 徴 | – | 
| 入場料 | 無料 | 
| 営業時間 | – | 
| 駐車場 | 有り(無料) | 
敦賀城へのアクセス
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