宇喜田秀家潜居跡平野屋敷の感想
宇喜田秀家は宇喜田直家の嫡男で関ヶ原の戦いで西軍側として戦った武将になります。宇喜田秀家の正室は豪姫(ごうひめ)で映画にもなったので知っている方もいらっしゃるのではないかと思います。ちなみに宇喜田秀家の居城は岡山城になります。豪姫は加賀藩(石川県)の大名前田利家の四女になります。
宇喜田秀家は西軍の副大将として参戦し、西軍が敗れたので関ヶ原から伊吹山に逃走します。その後、大阪まで逃げることに成功し、豪姫と再会したとされています。ただ、大阪での潜伏も長くは続けられず船で島津氏を頼って薩摩に逃げます。島津義弘は島津義弘で関ヶ原からギリギリの捨て身の戦法「捨て奸(すてがまり)」という身内や家臣を犠牲にして薩摩まで逃げ帰るのですが。。厄介者の秀家の面倒もみるとはすごいですね!
この逃げてきた時に宇喜田秀家が潜居していた場所がこの平野家の屋敷だったということです。ちなみに平野さんは現在もこの場所で生活されている方なので無闇に敷地内に入るなどはしないように気をつけてください。逃げてきて最初にこちらの下屋敷と言われるこの平野屋敷に住まわせてもらい。今回は日没間際で訪問できておりませんが、ここから国道220号線を渡って山側の方に行くと平野屋敷の上屋敷があったところで、その後、そこを宇喜田秀家の屋敷として平野さんが提供してくれたことで約2年半の間、宇喜田秀家は上屋敷で生活することになります。
1603年、家康との交渉で赦しをもらい死罪を免除された秀家は薩摩から駿府城(静岡県)へ移送され、その後八丈島へ島流となります。この死罪を免れるまでには秀家助命の嘆願書や豪姫、豪姫の母「芳春院(ほうしゅんいん)」が家康に掛け合ったとも言われております。
そして宇喜田秀家は八丈島で84歳の生涯を閉じます。豪姫が八丈島の秀家に仕送りをしていたことも有名な話です。
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宇喜田秀家潜居跡平野屋敷情報
| 年 代 | 1601年 |
| 住 所 | 鹿児島県垂水市牛根麓 |
| 種 別 | 史跡 |
| 入場料 | 無料 |
| 営業時間 | – |
| 駐車場 | 無し |
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