牛尾城 / 三笠城 / 三笠山城の感想
もしかしたら三笠城が正しいのかも知れませんが、あえて私は牛尾城と記載させて頂きます!( `ー´)ノ
牛尾氏は出雲国の有力な国人衆の一族だったらしく、尼子経久が月山富田城を奪還し出雲国に勢力を拡大し始めると、牛尾氏は尼子経久の家老(出雲国の国人衆なのに!!!凄い!!!)となりその剛腕を発揮して出雲国制覇に貢献したようです。
牛尾氏は元々信濃国の諏訪神社神主家 諏訪氏の傍流・中澤氏の末裔と云われており、出雲国に入国した時は湯原氏と称し後に尼子経久の家老になる牛尾幸清も当初は湯原次郎左衛門尉幸清と称していたみたいです。そ出雲国内で大原郡宇磯荘を支配することになってから、湯原氏から牛尾氏に変えて剛勇の戦国武将!!!牛尾幸清となります<(`^´)>!?
牛尾幸清はかなり初めから尼子経久の家臣として活躍していたみたいで、1511年、西国の雄である大内義興が京へ上洛すると尼子経久は西国側の武将として一緒に上京します!!!そこで三好氏と戦った船岡山の戦いにも参戦するなど、尼子経久の戦には全てにおいて参戦していたと思われます!!!
尼子経久から尼子晴久の代になっても重臣として尼子氏を支え続け、毛利元就を討伐するために軍事侵攻した、吉田郡山城の戦いにも牛尾幸清は参戦し奮闘!?!?吉田郡山城の戦いが失敗すると、これまで尼子氏方についていた国人衆がこぞって尼子氏から大内氏に鞍替えをしますが、牛尾氏だけは生涯尼子氏を貫いたようですね(^^)/
尼子義久の時代になると、毛利元就が2回も月山富田城を攻め(月山富田城の戦い1~2)、尼子十旗のひとつである白鹿城が落城すると、籠城の食料が尽きてしまいあえなく尼子氏は滅んでします・・・牛尾幸清と嫡男の久信と共に毛利元就に降り、降伏後は安芸国高宮郡深川に移り住んだようですね。。。
牛尾城画像ギャラリー
牛尾城は三笠山に築かれており三方に伸びる尾根に曲輪があるみたいですね!
細い峠道の途中に案内板を見つけました!( `ー´)ノ


やっぱ、案内は牛尾城ではなく三笠城なんだなぁぁぁ~(; ・`д・´)案内口から牛尾城攻めを開始してみます♪♪♪





森が・・・・・マジで深いっす!!!!!(´;ω;`)ウゥゥ




所々に加工された石や岩があり、何かしらの構造物があったんじゃないかと想像させてくれますねぇ~(⌒∇⌒)


牛尾城の山道は山城にありがちな山の斜面をらせん状に登って行くパターンです!
しかし、片側の崖はかなり厳しい状況で、牛尾城がなかなか堅固な山城だったと感じますね~



お!!!!確実に加工されていますね!石垣(石積み)かなぁ???













いいねぇぇぇ~(^◇^)








おっと!開けてきましたね~

あれ????電波塔が建っていました!(+_+) けどここは元々曲輪じゃないかと思われますねぇ~♪


お???奥に何かある????
古井戸がありました!!!けど深い藪の中です!(。-_-。)

岩・石置き場跡
次に進みましょう~♪(`・ω・´)ゞ






西日本で多いなぁ~って思うのですが、西日本は岩山が多いって感じています。
ここは武器にする岩・石を貯蔵していた場所らしく、いい感じの岩や石が採れたんだろうって思います。石とかは『イシツブテ』って云われて、先ず初心者でも扱いやすい武器のひとつとして考えられていました。










三の丸
三の丸ですね!尾根上っていうかかなり細い感じで築かれていたんでしょうね
藪だらけで・・・よくわからん!(´;ω;`)ウッ…















二の丸
続いて二の丸です!(`・ω・´)ゞ










いよいよ・・・・本丸かな?(^▽^)/



本丸
本丸に付きました!!!!!!!!!!<(`^´)>




牛尾城 / 三笠城 / 三笠山城情報
築 城 | 不明(15世紀末ごろ?) |
城 主 | 牛尾氏 |
住 所 | 島根県雲南市大東町南村 |
種 別 | 山城 |
廃 城 | 1570年ごろ |
特 徴 | – |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 無し |
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