臼井城(千葉県)

臼井城の感想

臼井城は千葉氏の家臣臼井氏の居城だったところです。あまり人が来るお城ではありませんが、上杉謙信が唯一負けた戦いと言われているのがこの「臼井城の戦い」とあと「生野山の戦い」の2つと言われています。
臼井城の戦いは、1565年に後北条氏の北条氏康と関東管領だった上杉謙信の関東を巡る領有権争いの戦いの一つです。実際に戦っていたのは北条氏側が原氏で上杉謙信側が里見氏と謙信自身になります。臼井城は鉄壁の城という造りでもなければ攻めづらい高い山にある山城というわけでもない普通の平山城です。文献によるとそんな臼井城なので原氏はあっという間に謙信に落城寸前まで追い込まれます。そんな時この臼井城に来ていた天才軍師「白井入道浄三」がこの窮地を助け、上杉謙信を撤退させました。この時の言葉に「千悔日(せんかいび)なので先に仕掛けた方が負ける。」という話があり、謙信はこの言葉を聞いた上でも敵が仕掛けてこないことに我慢できず、先に仕掛けて臼井城に攻めていきます。しかし返り討ちに合い謙信の兵15,000に対し臼井城は兵2,000ほどだったと言われていますが、謙信側の兵はこの戦いで5,000人くらいが亡くなる大敗北だったと言われています。謙信ほどの武将でも簡単に勝てるという驕りがあったのかななどと思うと歴史はおもしろいなぁ。とつくづく感じます。個人的に好きな武将は上杉謙信ですが、好きな軍師はこの謎の軍師「白井入道浄三」と「黒田官兵衛」なので必ず行こうと思っていたお城がこの臼井城になります。

臼井城画像ギャラリー

臼井城駐車場

わかりづらいですが、駐車場の案内があり10台〜15台くらいは停められそうな駐車場がありました。

駐車場から坂道を登っていくと臼井城の入り口がありました。

案内図を見ると本丸、二の丸、三の丸まで残っているようですね。三の丸のところに太田道灌の弟とも甥とも言われている太田図書助(太田資忠)のお墓があります。

上の2枚木が生い茂っていますが、堀跡のようです。

臼井城二の丸

入ってすぐに広場になっていますが、こちらが二の丸になります。

よくわからないと思いますが、二の丸を時計回りに外側の堀を写して行ってます。

臼井城の土橋

土橋の説明がありました。二の丸と本丸を繋ぐ橋だったのでしょう。ただ説明を読むと当時の土橋は盛り土によって保存されているとのことなので本来の土橋は土の中に眠っているようです。

ここが説明の土橋です。木が生い茂っていますが、左右が堀になっていて土橋になっていることが伝わるかと思います。

本丸に行く前に先ほどの案内図で本丸の向かいに小さい曲輪のようなものあったのでそちらに向かいます。図では高低差がわからなかったのですが、本丸に比べるとだいぶ低い位置にあった曲輪のようです。

だいぶ下ってきて、上の2枚が曲輪から本丸の方を見上げた写真です。だいぶ高い土塁というか切岸のようになっています。

本丸向かいの曲輪(不明)

この上の画像が曲輪の奥から撮ったものになります。これなら少し曲輪の感じ伝わりますかね。

臼井城本丸

今は公園なのでベンチなど整備されています。意外と本丸広いです。

少し高台になっているので見晴らしがいい感じです。

真ん中左の方に見えている水辺が印旛沼になります。

【動画】臼井城本丸からの眺め

先ほどのところから時計と逆回りに本丸の際を歩いてきたら印旛沼が見渡せる場所がありました。
この動画を見てもらえればわかるかと思いますが、すぐ下に一般の2階建ての屋根が見えているくらいの高さしか本丸でもありません。よくこれで謙信の15,000の兵から守れたなという感じです。

先ほどの謎曲輪からさらに降りていける道があって行ってみましたが、民家に出てしまいました。ここまでで臼井城終わりのようです。

入り口に戻って、公園を出て三の丸の方へ行ってみることにします。

正面に見えてきたのが三の丸で太田図書助(太田資忠)の墓になります。

臼井城三の丸・太田図書助(太田資忠)の墓

臼井城の後北条氏や原氏からすれば敵に当たる太田図書助(太田資忠)ですが、この地で亡くなったということでお墓を作ってくれているのは嬉しいですね。ここの案内では太田図書助(太田資忠)は太田道灌の弟と書かれていますね。ちなみに三の丸はこのお墓のところまでで中には入れるようになっていませんでした。

臼井城情報

築 城不明
城 主臼井氏、原氏、酒井氏
住 所千葉県佐倉市臼井田900
種 別平山城
廃 城1604年
特 徴市指定史跡
入場料無料
営業時間
駐車場有り(無料)

臼井城へのアクセス

臼井城レビュー

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