山縣昌景 / 山縣昌次・名取道忠 / 高坂助宣 の墓の感想
長篠・設楽原古戦場のほぼ正面、たぶん武田軍が陣を引いてあっただろうと思われる小さな丘に、山縣昌景の墓があり、山縣昌景と共に、山縣昌次・高坂助宣の墓もありました。
古戦場沿いの農道になるのかな?その道沿いに『山形(縣)の地名』の案内板があり、その横の細道40mに山縣塚としてあります。
山縣昌景 / 山縣昌次・名取道忠 / 高坂助宣 の墓画像ギャラリー
脇の小道を少し登っていきます。
ありました!!!!!!!!!
山縣昌景のお墓
山縣昌景のお墓(碑)です。
山縣昌景は武田二十四将のひとりであり、武田勝頼時代には武田四天王(馬場信春(信房)・内藤昌豊・高坂昌信、そして山縣昌景)とも言われており、飯富虎昌の弟?(甥?)と云われており、子供の頃は口に障害があり背も低くいじめられていたが、武田信玄が気にかけ育て上げることで、武田きっての猛将と育ち、私の中では『武田の赤備え』と云えば、山縣昌景っていうイメージです!!!
飯富氏も名族だったがこれまた名族の山縣氏を継ぐことから武田信玄の期待と信頼の高さを感じます。また、武田信玄の嫡子、武田義信と義信の守役だった兄の飯富虎昌が謀反を企てたときに、その謀反の企ていち早く武田信玄に告げたことに、武田信玄の山縣昌景に対する信頼は揺るぎないものになります。(武田義信と飯富虎昌は切腹を申し付けられ殺されてしみました)その後は、武田信玄→武田勝頼に仕え、ここ長篠・設楽原の合戦で討死したと云われています。
山縣昌次・名取道忠のお墓
山縣昌次・名取道忠のお墓です。
山縣昌次も元々山縣氏の末裔でもなく山縣昌景の子でもありません。山縣昌次も甲斐国の名族であった三枝(さいぐさし)氏の一族で、父・虎吉や兄・昌貞と同様に武田家の譜代家老であった山縣昌景から山縣姓を与えられていたみたいですね。長篠・設楽原の合戦の際は26歳ぐらいだった様で、山縣昌景と共に討死したようです。
名取道忠は山縣昌次のついていた側近だった様で同合戦で昌次と共に討死したようですね。
高坂助宣のお墓
高坂助宣のお墓です。
高坂助宣さんはよくわからないのですが・・・高坂昌澄なのかもしれません・・・が・・・俺にはちんぷんかんぷんの武将です!
多くの武田の重臣が討死したことがわかりますね~
黒畑阿弥陀堂
黒畑阿弥陀堂です。
山縣昌景のお墓の手前に存在しています。ここも山縣昌景のお墓とされています。
山縣昌景 / 山縣昌次・名取道忠 / 高坂助宣 の墓情報
年 代 | 1575年 |
住 所 | 愛知県新城市竹広498 |
種 別 | 史跡(お墓) |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 無し |
山縣昌景 / 山縣昌次・名取道忠 / 高坂助宣 の墓へのアクセス
山縣昌景 / 山縣昌次・名取道忠 / 高坂助宣 の墓レビュー
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