山崎興盛自刃之地の感想
須々万沼城 (すすまぬまじょう)のすぐ近くに須々万沼城 の城番だった山崎興盛の『山崎興盛自刃之地』があります。
山崎興盛は大内氏の家臣であり、後に陶氏の家臣になった人物だと思われますが詳しくはわかりません。名前に『興』の文字があることから大内義興(大内義隆の父親)との関係が強いものだと思われます。
須々万沼城 の籠城戦で山崎興盛親子、江良賢宣、宮川伊豆守らと毛利軍と戦っていましたが、1557年2月ごろから毛利元就自ら軍勢を率いて攻撃を始め、沼に蓆を浮かべ、火縄銃を初めて戦闘で使用しながら総攻撃を行うなど大内軍を苦しめていきます。須々万沼城の城兵はよく防戦したが、江良賢宣・宮川伊豆守らの降伏や城兵の士気低下により多くの兵が逃亡するなどしたため、3月2日に須々万沼城は開城することになります。毛利元就は山崎興盛父子の善戦を賞賛し助命しようとしたが、山崎興盛は志を曲げなかったので、毛利元就は山崎興盛の『自刃』を許します。
山崎興盛は息子の隆次と共に須々万沼城麓の本条という場所にて自害しました。
山崎興盛自刃之地画像ギャラリー
須々万沼城の近くに『案内板』が出ていました!
『山崎興盛自刃之地』の場所です。たぶんですが息子の山崎隆次(こちらは大内義隆から一字もらったんでしょうね)もここで自刃したんではないかと思います。
山崎興盛自刃之地情報
年 代 | 1557年 |
住 所 | 山口県周南市須々万奥423−2 |
種 別 | 史跡 |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 無し |
山崎興盛自刃之地へのアクセス
山崎興盛自刃之地レビュー
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