原昌胤の墓の感想
山縣昌景の墓たちから少し進み、途中、小道を登り小幡信貞・小幡一族の墓を通り過ぎで丘の頂上付近の畑の中に『原昌胤の墓』がありました!(^▽^)/
原昌胤は武田二十四将のひとりでもあり、しかも武田二十四将にはもう一人原虎胤が存在しています。両名とも『原』であり『胤』が付くため同一族の様に思われますが、原昌胤は美濃国出身で美濃土岐氏の流れを組む一族と云われ、もう一人の原虎胤は下総(しもうさの)国出身で下総千葉氏の流れを組むといわれ、原虎胤は猛将として有名で周りから『鬼美濃』と呼ばれていたらしいです・・・この辺からややこしくもなりますね!苦笑
原昌胤は陣馬奉行を務めその後、上州方面の取次衆を務めていたみたいで、武もですが文にも長けた人だったのかもしれません。駿河侵攻の際には富士氏が籠る大宮城を攻略し、富士山本営浅間大社や静岡浅間神社などを支配するなど行い、今川氏の家臣たちとの取次も務めていた様です。
そして武田信玄から武田勝頼に仕えるようになり、この長篠・設楽原の合戦で戦死したと云われています。
原昌胤の墓画像ギャラリー
小幡一族の墓があった方面から登っていきます。
丘の上の畑の中に『原昌胤の墓』はあります。。。。。。。。。
前と・・・・・後ろ・・・・・・・・・
原昌胤の墓情報
年 代 | 1575年 |
住 所 | 〒441-1305 愛知県新城市竹広533 |
種 別 | 史跡 |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 無し |
原昌胤の墓へのアクセス
原昌胤の墓レビュー
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