放生津城(富山県)

放生津城(富山県)

放生津城の感想

放生津城(ほうじょうづじょう)と読みます。放生津城は神保氏の居城として有名でもありますが、個人的には足利義稙(あしかがよしたね)/義材(よしき)の逃げてきたお城。身を寄せていた場所としての方が面白く興味がある人です。
ここの説明版では義材(よしき)と書かれていますが、この記事では義稙(よしたね)で書かせていただきます。義稙は室町幕府の第10代将軍ですが、幼少期に家督争いの都合で父と共に美濃の土岐成頼の下に逃げます。美濃の川手城で幼少期を過ごしたものと思われます。その後、足利義尚が将軍の頃に跡取りがいなかった都合もあり1490年に義稙がなんと将軍になります。細川政元は義澄(よしずみ)を将軍にしたかったために、1493年に政元は義稙を幽閉。義稙は逃げ出し、追われる形で各地を転々としながら上洛の機会を伺うことになります。その時に身を寄せた場所の一つが放生津城になります。
その後、1498年に義稙は朝倉貞景を頼って越前の一乗谷に移ります。しかし、上洛は成功せず、今度は周防の大内義興(おおうちよしおき)を頼ります。1507年に細川政元が亡くなったことで1508年に京へ戻ることができ、15年の歳月を経て義稙は将軍に再び戻ります。しかし、今度は細川高国と対立し、阿波へ逃げます。挙兵して高国打倒を目指しますが、1523年阿波の地で病死して亡くなりました。

これ以上は放生津城から離れてしまうので、放生津城の歴史に戻ると、神保氏の頃に義稙を守っていたお城であり、その後、1520年に長尾為景によって落城させられてしまいます。しかし、神保氏は富山城を築城し力をつけて放生津城も再建したとされています。その後、江戸時代に入り、前田氏が城主の頃に廃城になったとされています。

放生津城画像ギャラリー

説明版

説明版と石がありました。当時のものですかね??

城とは直接関係ないですがとりあえず撮影させていただきました。

土塁

ここでは土塁として紹介させていただきますが、土塁ではないようです。

中に入らせていただくと土塁のような砂留め?がありました。なかなかの迫力です。

城跡は今は小学校のグラウンドになっている感じですね。

土塁らしきものの上から見るとこんな感じです。

放生津城情報

築 城不明(鎌倉時代)
城 主名越氏、桃井氏、畠山氏、神保氏、前田氏
住 所富山県射水市中新湊23
種 別平城
廃 城不明(江戸時代初期)
特 徴市指定史跡
入場料無料
営業時間
駐車場無し

放生津城へのアクセス

放生津城レビュー

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