松山城/松尾城/志布志松山城(鹿児島県)

松山城/松尾城/志布志松山城(鹿児島県)

松山城の感想

松山城、(別名:松尾城)は1188年平清盛の弟、頼盛の孫である重頼(しげより)が松山に来て築いた山城だとされるお城とのことです。1413年には新納氏(にいろし)が領有しており、嘉吉の乱1441年頃に赤松満祐(あかまつみつすけ)の子、赤松教康(あかまつのりやす)島津氏を頼ってこの地へ来て赤松氏が領有していた時代もあるとのことです。個人的にはこの赤松氏が松山城に来ていたことに驚きました!!島津氏の記録で赤松教康の記述があり生存説があったみたいですね。赤松氏は兵庫県(播磨・備前・美作)などを領有していた名門の武家で嘉吉の乱で赤松家は滅亡したものだと思っていたので鹿児島県で赤松氏の名前を見た時は別の赤松氏がいたのかな?と思いました。
もし赤松氏にも興味を持っていただいた方がいたら赤松氏の居城、置塩城の記事も読んでみてください。

松山城は戦国時代はこの新納氏、豊州島津氏、北郷氏が争奪を繰り返し、豊州島津家が領有するようになったとのことです。ちなみに、新納氏も豊洲島津氏も北郷氏も島津氏の家系なのでお家内での争いとも言えますね。1559年になると肝付氏が領有したりと松山城の取り合いが続き、1577年、肝付氏が高山のみの所領となったことで島津氏の直轄領となったとのことです。

松山城の造りですが本丸、二の丸、五兵衛城、八幡城の四つの曲輪から構成されていたお城とのことですが、現在そのままの状態で残っているのは二ノ丸のみとなっており、運動公園の体育館のあるあたりが松山城本丸跡とのことです。

松山城画像ギャラリー

駐車場

現在は「城山総合公園」となっていていてきれいな整備された公園となっています。

とにかく広いです。城の説明板の方へ行ってみます。

説明板が見えてきました。

説明板

現在そのままの状態で残っているのは二の丸部分だけと書いてあります。どこからどこまでが二の丸?

とりあえずこの登った先が二ノ丸みたいなので登っていきます!

二ノ丸展望台の案内が出てきました。

二ノ丸

開けたところに着きました。ここが二ノ丸かな?

櫓風の展望台があるので登ってみます!!

展望台の入り口となりに「神州不滅」の碑がありました。

中は螺旋階段になってました!

東西南北を撮影してみました。
あれが体育館ですかね?そうするとあそこが本丸になるのかな。

展望台の次は護国神社の方へ行ってみます!

護国神社

鳥居と社がありました。🙏

空堀

説明板のところまで戻ってきました。

空堀行きたかったのですが、薮がすごくて断念です。。でもここからでも堀になっているのはよく分かりますね!

本丸方面の斜面が当時の切岸などの名残ですかね?

最後に多目的広場になるのかな?を見て訪問完了です!曲輪跡では無い可能性が高そうですね。
二ノ丸と本丸だけでも結構広いので規模の大きなお城だったのかもしれないですね。

松山城情報

築 城1188年
城 主平氏、
住 所鹿児島県志布志市松山町新橋1570−17
種 別山城
廃 城不明
特 徴市指定史跡
入場料無料
営業時間
駐車場有り(無料)

松山城へのアクセス

松山城レビュー

松山城についての皆さんの評価をお願いします。
松山城おすすめの理由や訪問時の感想などもご記入いただけると嬉しいです。

お城カテゴリの最新記事