三好長慶公生誕之地(徳島県)

三好長慶公生誕之地(徳島県)

三好長慶公生誕之地の感想

戦国時代に織田信長よりも最初に天下人になった武将である『三好長慶』が生まれた場所『三好長慶公生誕之地』です!すぐ近くには三好代々100年間の居城となった芝生城があります

元々は機内で政権を握る細川晴元の有力な家臣で、三好長慶の父である元長は細川晴元と敵対していた細川高国を攻め滅ぼすなど有能な重臣でもあったが、阿波国のみならず畿内の山城国にも勢力を拡大したため、主君である細川晴元に危険視され三好政長・木澤長政らの謀略にはめられ殺害されたため、三好長慶(当時10歳)は阿波国にいったん逃げることになります。
三好長慶が11歳になると阿波国で元服し再び畿内に戻り、本願寺と分離していた一揆衆と戦い摂津国の越水城を取り戻し、本願寺と連携をとって主君であった細川晴元とも戦い、自分の父親を殺害した細川晴元方の三好政長とも戦ったりしています。これまた細川晴元方である木沢長政(こ奴も長慶の父親を殺害した)が仲介し、三好長慶は再び細川晴元の配下に戻ることとなります。
細川晴元の傘下に戻った三好長慶は機内を転戦し一進一退を繰り返します。その間に幕府側への接触を始め、同じごろに元々父の三好元長の旧跡である京都の管理(支配下)に手を出し、河内十七ヵ所の代官職を置くことなどをするのですが、それらの事が三好政長との対立を激化させていく事となります。この時の河内十七ヵ所の代官職を任命したのが幕府とされているようですね。徐々に三好長慶と細川晴元・三好政長との対立が激しくなってきて太平の戦いなど敵になったり味方になったりごちゃごちゃごちゃごちゃするので、俺もよくわかっていません(興味がありません)・・・失笑
その後、、江口の戦いなど多くの戦いを繰り返し、かつての主君である細川晴元と三好政勝らは摂津から逃亡し、細川晴元は足利義晴・義輝父子らを連れて近江国坂本に落ちて行ってしまいました。
三好長慶は細川晴元に代わる主君として細川氏綱を擁立し入京し細川氏綱を残して摂津へ戻り、晴元派の伊丹親興が籠城する伊丹城を攻めて遊佐長教の仲介で開城させ摂津国を平定します。これにより細川政権は事実上の崩壊となり、新たに三好政権が誕生することとなります!!!!!

晩年はイロイロとありますが、三好長慶は間違いなく戦国時代の英雄のひとりであることは間違いないと思われます((´∀`*))ヶラヶラ その三好長慶が誕生したこの芝生城がある現在の徳島県三好市の大地に俺は間違いなく立っていることに大変感動していました~♪大喜ですよ♪(^▽^)/~♪

三好長慶公生誕之地画像ギャラリー

三好長慶公生誕之地情報

年 代1522年
住 所徳島県三好市三野町芝生765
種 別史跡
入場料無料
営業時間
駐車場無し

三好長慶公生誕之地へのアクセス

三好長慶公生誕之地レビュー

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