長篠・設楽原古戦場(愛知県)

長篠・設楽原古戦場(愛知県)

長篠・設楽原古戦場の感想

『長篠の戦い』や『長篠・設楽原の戦い』と言われる歴史を変えた合戦と云われる古戦場です。

歴史的には鉄砲を本格的に活用した初の合戦になっていて、織田・徳川連合3万8千と最強武田軍1万5千がぶつかり合った合戦で、武田軍は最強と言われた騎馬軍団を活用した戦術に対し、織田・徳川連合軍は長篠城の手前の設楽原の地に布陣することとなり、小川や沢に沿って丘陵地が南北にいくつも連なる設楽原の地をあえて選んで布陣したと思われますね。
小川・連吾川の2つの小川を堀に見立てて、川を挟む台地の両方の斜面を削って人工的な急斜面とし、さらに三重の土塁と馬防柵を設けるたようで、実にその長さは2kmにもおよんでいたとされています。

実際に長篠・設楽原の古戦場に行ってみると、大きな戦の割には小さな丘や小川が流れた狭い盆地の様にも感じました。長篠。設楽原古戦場の前線から一山超えた最前線には、なんと徳川家康の本陣が引かれており、息子の信康の本陣は盆地を挟んだひとつ後方の山、さらに盆地を挟み応報の山に織田信長の息子の織田信忠・織田(北畠)信雄の本陣があり、さらに後方の茶臼山の頂上に織田信長の本陣があるなど、こぉ比べてみてもわかる通り、徳川家康自身が最前線で指揮を執っていたことがわかります。
一方、長篠・設楽原古戦場から向かいのすぐの小高い丘に武田軍が布陣しており、そのすぐ裏手に武田勝頼の本陣があったと思われ、武田軍の方が本陣自体が最前線近くにあったことがわかります。

この長篠・設楽原の合戦で武田軍は重臣を殆ど失い、壊滅状態になってしまいます。この小さな盆地、起伏のある場所、数本の小川、田んぼか畑だった場所・・・などなど、騎馬隊や大軍の移動を規制する条件がたくさんあり、そこに『日本の歴史上初の鉄砲の三段撃ち』で武田軍に追い討ちをかけたんだなって、現地を見てあらためて発見がありました!!!!!

長篠・設楽原古戦場画像ギャラリー

連吾川を挟んで『長篠・設楽原の合戦場』があります。

入口にクルマを停めて馬防柵へ向かってみます。

連吾川よりまで行って、武田軍側から見た馬坊柵を見てみました・・・むむむ・・・これは広いな!

長篠・設楽原古戦場動画

武田軍気分で馬防柵に突撃してみます♪(^▽^)/♪ 最初に映っている小高い丘が武田軍が布陣していた場所になります。この合戦場まで本当に狭い盆地を3万8千と1万5千の大軍がぶつかり合っていたなんで、かなり考えただけでも死傷者は計り知れなかったでしょうね。。

長篠・設楽原古戦場情報

年 代1575年
住 所愛知県新城市八束穂1062
種 別史跡
入場料無料
営業時間
駐車場有り(設楽原歴史資料館第三駐車場:無料)

長篠・設楽原古戦場へのアクセス

長篠・設楽原古戦場レビュー

長篠・設楽原古戦場についての皆さんの評価をお願いします。
長篠・設楽原古戦場おすすめの理由や訪問時の感想などもご記入いただけると嬉しいです。

古戦場カテゴリの最新記事