内藤昌豊の墓の感想
新城市立 東郷中こども園の近く、武田勝頼がこの場所で戦の指揮をしたといわれるところに、『内藤修理亮昌豊の墓』があります。
内藤昌豊は武田二十四将のひとりであり武田四天王のひとりでもあります。
内藤昌豊は武田信虎の重臣であった工藤虎豊の次男として誕生したみたいです。工藤虎豊が武田信虎に反乱を起こしたが敗北し北条早雲を頼って逃げたようです。
その後、武田信玄の時代になると「工藤源左衛門大尉」を名乗り信玄の側近として活動していることが確認が出来るそうで、信濃国深志城(現在の松本城)の城代を務め、武田軍が関東に攻め込むと西上野を領国化した際、内藤昌豊は上野国衆などの取次として務めたり、浅利信種が三増峠の戦いで戦死すると浅利信種に代わり、箕輪城の城代と西上野の領土に睨みをきかせていたようです。
永禄10年頃までは工藤氏を名乗っていたが永禄12年頃に甲斐国の名族であった内藤家が断絶していたため内藤家を受け継ぎ、内藤昌豊となり『修理亮』を名乗ったとされています。
長篠・設楽原の合戦では、原昌胤・山県昌景とともに左翼に配置され、西上野国衆を相備にしていたとされており、本多忠勝の軍と戦い敗れ討ち死にしたとか言われていますがはっきりとはしていません!
内藤昌豊の墓画像ギャラリー
内藤修理亮昌豊之碑です! よく見ると後ろにもうひとつのお墓が・・・
内藤昌豊の墓情報
年 代 | 1575年 |
住 所 | 愛知県新城市八束穂1041 |
種 別 | 史跡 |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 無し |
内藤昌豊の墓へのアクセス
内藤昌豊の墓レビュー
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