扇ヶ谷上杉管領屋敷跡の感想
JR横須賀線の英勝寺前の少し行った踏切近くに『扇ヶ谷上杉管領屋敷跡碑』がありました。
この場所は『扇ヶ谷』という場所で鎌倉時代の頃からあったようです!
1252年に五代目執権の北条時頼の要請に応え、鎌倉に下向した宗尊親王と共に公家だった上杉重房が宗尊親王に従って鎌倉に来たことが始まりで、宗尊親王が鎌倉を追放されても上杉重房はこの地に残ったようですね。
鎌倉に残った上杉重房は足利氏と婚姻関係を結び勢力を徐々に拡大させ、上杉重房の孫の清子は足利貞氏に嫁ぎ後に足利尊氏・直義を生みます。足利尊氏が室町幕府を開くと、鎌倉には尊氏の三男の義詮が置かれ足利家中では上杉氏が権勢を得ていき、上杉憲顕が執事となり義詮を補佐していた。後に室町時代の鎌倉幕府を支えるために関東管領という役職を置き、その地位には上杉氏が付くこととなったみたいです。その頃ですかね山内上杉家・犬懸上杉家・扇谷上杉家・宅間上杉家が世襲していきます。
この上杉四家が勢力争いを始めるのですが、山内上杉家と犬懸上杉家が勢力を急激に大きくしていきます!!!が!!!!上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)が勃発し、逆にその影響で犬懸上杉家が没落してしまいます。すると太田道灌の登場と共に扇谷上杉家の勢力が台頭!!!山内上杉家と扇谷上杉家の争いが激しく拡大していき、当時、伊豆国を支配した新興勢力の北条早雲(伊勢新九郎)が相模国、及び、関東全域への侵攻を許してしまい・・・扇谷上杉氏も滅び山内上杉氏は関東管領の地位を棄てて越後の上杉謙信(長尾景虎)を頼って逃亡!!!関東で勢力を誇っていた関東管領上杉氏は歴史から名を消してしまいます(`・ω・´)ゞ
因みに・・・相模国にいた宅間上杉氏は細々と残り、後に後北条氏の傘下に入るようですね(^^)/
扇ヶ谷上杉管領屋敷跡画像ギャラリー





扇ヶ谷上杉管領屋敷跡情報
| 築 城 | 不明 |
| 城 主 | 扇ヶ谷上杉氏 |
| 住 所 | 神奈川県鎌倉市扇ガ谷2丁目4−3 |
| 種 別 | 平城 |
| 廃 城 | 不明 |
| 特 徴 | – |
| 入場料 | 無料 |
| 営業時間 | – |
| 駐車場 | 無し |
扇ヶ谷上杉管領屋敷跡へのアクセス
扇ヶ谷上杉管領屋敷跡レビュー
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