志賀城の感想
志賀城は武田晴信(武田信玄)の志賀城攻めで有名なお城で、「小田井原の戦い」の中心になったお城です。現在は佐久市内の長閑な場所といった印象ですが、1546年に武田晴信(信玄)は領地拡大のために佐久地域がどうしても欲しく、志賀城城主の笠原清繁(新三郎)に戦いを挑みます。笠原氏は関東管領の上杉憲政に援軍を頼みますが、流石の武田晴信(信玄)、家臣たちに碓氷峠へ向かわせて上杉の援軍を足止めどころか撃破してしまいます。そして、笠原氏に戦っても無駄と思わせるために武田晴信の行った行動が、志賀城の麓に上杉の援軍を撃破したおよそ3000もの敵将、敵兵の生首を晒したと言われております。その後、城主の笠原氏も戦死し志賀城は落城しその後廃城になったと言われております。笠原清繁(新三郎)の首塚が今も志賀城の城下に残っています。
そんな、激戦の地だった志賀城に行ってきました!
なかなか攻めづらそうな山城で七曲的なルートで登っていくので武田信玄としては無駄に戦いを挑んでも返り討ちにあうと踏んで3000もの兵の首を並べたのかな?なんて思いながら登城してきました。
志賀城画像ギャラリー


雲興寺の駐車場に停めさせていただき志賀城を目指します!

脇の階段から登っていきます。



なんの記念碑かよくわかりませんでしたが、この辺りを目印に行かれる方は進んで行ってみてください。




志賀城趾の石標発見!先を見るとなかなかに竹薮が荒れまくってますが、なんとか行けそうです。




画像では伝わりづらいですが、意外と暗く、屈まないと通れないくらいに竹が倒れてきてたりでなかなか不安を感じながら進みます。熊にも注意が必要なので内心、ドキドキしながら歩いてます。




なんとなく。道以外にも人の手が入ったような、空堀のような曲輪のような雰囲気を感じますが詳細はわからないので写真だけ撮って先へ進みます。




結構な急斜面なことを伝えたくて撮影したのですが、わかりづらいですね。なんとなく竪堀っぽくも見えます。





人の手で加工された石や自然の石(岩)だと思われますが、うまく当時から城の石垣のような用途として機能してそうな場所などを通って登っていきます。



人一人分くらいの道幅でかなり急な上に枯れ草などで滑りやすい場所を通ります。
写真ではなだらかな斜面にも見えますが踏み外したらかなり下まで転げ落ち、枯れ草で見えづらいですが先ほど通ってきた岩場もあるのでたぶん生死に関わる危険な場所だと思います。くれぐれも城跡だと舐めてかからないほうがいいです。雨の後などは要注意です。




当時もこんな感じだったらとても兵の数だけいても攻め落とせない城だったと思われます。
実際、志賀城が落城したのは攻められたからではなく、水の補給を断たれたためとも言われているようです。




木の間から下界が見える場所まで登ってきました。だいぶ登ってきたなぁ





なんかそろそろ頂上の雰囲気が出てきました。遺構らしきものはここまであまり無い感じではありましたが、何か上には残っているのか楽しみです!

大きな石が2つ。間は人や荷物の出し入れなどもできそうな幅があるので、当時の門跡のような雰囲気も感じますね。

木に侵食されてますが、石積み発見!こういうの見つけるとテンション上がってきます!!

これは自然に割れたのか?それとも意図的に割って何かに使われていたのか?気になる石を見つけました。

先ほどの門のように見えた岩を反対側から撮影。

なんとなく堀切か竪堀かの跡に見えます。案内がないので詳細はわからないですが何かの遺構であることは間違いないと思います。




周囲を散策。何かないかな?


土橋に堀切のような遺構が残ってます!テンション上がってます!ただ土橋の先には行かないようにか青いテープがかけられています。


ここが本丸跡なのかもわかりませんでしたが、城跡の痕跡は発見できたので志賀城の登城これで完了です!できれば説明版などあると嬉しいですね。もしかしたらあったけど朽ちてしまったとかなんですかね。でもなかなか歴史的にも意味があり、山城としても攻めがいのある城跡でした!
志賀城情報
築 城 | 不明 |
城 主 | 笠原氏 |
住 所 | 長野県佐久市志賀3611 |
種 別 | 山城 |
廃 城 | 不明(1546年ごろ) |
特 徴 | – |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 有り(無料:雲興寺駐車場) |
志賀城へのアクセス
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