陶晴賢の墓(広島県)

陶晴賢の墓(広島県)

陶晴賢の墓の感想

陶晴賢は、周防国・長門国を中心に石見国、豊前国、筑前国を支配した大内氏の重臣を代々務めている大内氏の一族で、父である陶興房(実は養父)の跡を継ぎ、大内義隆の重臣として大内家の屋台骨(特に軍事方面)を支えた武将です。当時は陶隆房(大内義隆から一字もらい受けて)と名乗っていました。

主君である大内義隆が出雲遠征(尼子討伐)に失敗すると、大内義隆は軍事面に無関心となり文化や宴などに没頭するようになり政もそっちのけになりながら、文治派の相良 武任(さがら たけとう)の台頭を招くこととなり、大内義隆も寵愛したため、武断派である陶隆房との関係はどんどん悪化していく事となります。戦国時代ですからねぇ~苦笑。。。大内義隆のこの傾向に周りの重臣は危機感を感じるのは当たり前だと思います。

そんな中、重臣で武闘派の内藤興盛や杉重矩などが陶隆房側に付くようになったため、1551年8月に陶隆房を中心とした武闘派連合が挙兵し『大内家を立て直し守る』ことを掲げ山口の進軍!!!最終的には大内義隆を長門の大寧寺に追い込み、主君の大内義隆を自害に追い込んでしまいます。(まさに下剋上!)大内家の乗っ取りが目的ではない陶隆房は、豊後国の大友宗麟の弟八郎を大内家の主君として迎え入れ『大内義長』と名乗らせ、自らも自ら滅ぼした主君の大内義隆の『隆』の一字を棄て、『陶晴賢』と名乗りこととなります。

その後、これまで従っていた毛利元就が『御屋形様(大内義隆)の敵討ち』を掲げて陶晴賢から離反し挙兵すると、瞬く間に安芸国を支配下に置いてしまうので、焦った陶晴賢は安芸国攻め(毛利攻め)を決定し厳島に進軍し、逆に毛利元就の奇襲に会いあえなく自害させられてしまいます。(今はさらりと流していますが、ここまで来るのに恐ろしいほどの毛利元就の謀略が展開されます)
敗れた陶晴賢は桜尾城で首実検がされたと云われており、その後、毛利元就から丁寧に葬られ洞雲寺に墓(首塚?)建てたと云われています。

陶晴賢の墓画像ギャラリー

陶晴賢の墓は、毛利元就が丁寧に葬られたと云われる広島の廿日市にある『洞雲寺』ありました。。。

『陶晴賢の墓』です!すぐ近くには『友田興藤の墓』もあります。

陶晴賢の墓(洞雲寺)情報

創 建1487年
本 尊釈迦如来
住 所広島県廿日市市佐方1071−1
種 別寺院
特 徴
入場料無料
営業時間
駐車場無料

陶晴賢の墓(洞雲寺)へのアクセス

陶晴賢の墓レビュー

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