鳥居強右衛門の磔地の感想
武田信玄が亡くなって3年後、喪に伏せていた武田軍が三河に侵攻し東三河の重要拠点であった長篠城(500人が籠城)を1万5千の大軍で囲い込んでしまう。当初は長期の籠城戦に備えていた長篠城側ではあったが、武田軍が放った火矢が食糧倉庫に引火し火事となり食料を焼き尽くしてしまう。
慌てた長篠城側は徳川家康に援軍を急ぐように使者を立てるが、その時に使者として自ら志願したのが『鳥居強右衛門(とりい すねえもん)』です。(正確には鳥居強右衛門と鈴木金七の2人だったらしい)城の川沿いに進んで城を脱出し岡崎城まで無事に着き、徳川家康に援軍を乞いますが、岡崎城には既に織田軍3万と徳川軍8千が集結していたため、鳥居強右衛門は直ぐに援軍を知らせるために長篠城に戻ります!(因みに一緒に使いとして来た鈴木金七は岡崎に残り武士を辞めて農家となるようです)
急いで戻る鳥居強右衛門ですが、城の近くの有海村(城の西岸の村)で武田軍の兵に見つかり捕らえられてしまう。武田方の厳しい拷問に対し堂々と織田・徳川連合の応援が来ることを堂々と告げたため、武田勝頼がのそ肝の座りように感心し、『援軍は来ないため城を開け渡す』ことを言えば命は助け所領も与ええると約束させ、投降を呼びかけるように長篠城から見える豊川挟んだ川岸に鳥居強右衛門を連れていくと、鳥居強右衛門は勝頼からの要求とは真逆に『援軍はもう時期来る!!!!』と大声で伝えたため、鳥居強右衛門は『逆磔』にされその場で串刺しにされました。(公開処刑です)
鳥居強右衛門の磔地画像ギャラリー
場所は新東名高速道路沿いの市道429号線沿いにありJR飯田線の踏切の手前に入口があります。
上記を曲がっていくと・・・ありました!
まず案内板がお出迎えしてくれます。
案内板に向かって右手に進むと『鳥居強右衛門磔死之跡』と書かれた碑があります。
鳥居強右衛門の磔地情報
年 代 | 1575年 |
住 所 | 愛知県新城市有海篠原21−50 |
種 別 | 史跡 |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 無し |
鳥居強右衛門の磔地へのアクセス
鳥居強右衛門の磔地レビュー
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