安国寺恵瓊の墓(広島県)

安国寺恵瓊の墓(広島県)

安国寺恵瓊の墓の感想

安国寺恵瓊(あんこくじえけい)は毛利家の外交僧であり一説では豊臣政権下では秀吉に取り立てられ大名であったともされています。(異説ありますなぁぁぁ・・・・)
安国寺恵瓊はなかなかの不思議な生き様があり、もともと毛利元就が滅ぼした名門の安芸武田氏の一族だった様で、1541年に毛利元就に安芸武田氏が滅ぼされると、武田信重(これも諸説ありますが)子だった恵瓊は家臣に守られ佐東銀山城を脱出し落ち延び、安芸国の安国寺(現在の不動院)に逃げ込みます。落城した佐東銀山城から不動院まで直線距離で約5kmぐらいです。安国寺に逃げ込んだ際に出家したようですね。。。その後、京都の東福寺で修業し竺雲恵心(じくうんえしん)に弟子入りし学んだとされています。この竺雲恵心と毛利隆元(毛利元就の長男)が親交があり、そのきっかけなのか?1574年に安芸安国寺の住持となり、後に東福寺や南禅寺(なんぜんじ)住持にもなり、中央禅林最高の位にもつくなど大きく飛躍をしていきます。
毛利氏が恵心に帰依していた関係から、早くに毛利家に仕える外交僧となっていたものと思われ、毛利氏が大友氏と争う際は九州に赴き現地の豪族たちに毛利氏に助力するように交渉したり、1571年には毛利元就の書状を携えて上京して室町幕府将軍足利義昭に対し、大友氏・浦上氏・三好氏との和議の斡旋を依頼した活動などが見られます。
天下統一を目指す織田信長が西国に豊臣秀吉を動かすと、信長や秀吉の交渉役として恵瓊が対応していたと思われ、その際にどんどん秀吉との関係が深くなってきたと思われます。
有名な逸話としては、1573年12月12日付に児玉元良・井上春忠・山県越前守に宛てた書状に『信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候』となっており、織田信長が滅ぼされることと、秀吉が天下人になることを予言(的中)したとされています。

安国寺恵瓊はその後、毛利家の外交僧をやりながら豊臣政権の外交役としても活動を行い、毛利元就・毛利隆元亡き後は小早川隆景を中心に活動をしていたようですが、同じ毛利一族の吉川元春には嫌われ、息子の吉川広家とは激しく対立をしていた様です。
豊臣秀吉が亡くなると、石田三成と徳川家康との対立が始まると安国寺恵瓊は石田三成と結託し徳川家康に対抗します。関ケ原の合戦へ向かう最中、西軍(石田三成側)の総大将に毛利輝元を引っ張り出すことに成功します。この時・・・天下を毛利にっと思っていたのでしょうか???それとも毛利元就の遺言だった『毛利は天下を目指さず』の教えに背き毛利家を滅ぼしに来たのか・・・小早川隆景が亡き後、毛利家を支えていた吉川広家と激しく!激しく!対立することとなり、関ケ原の合戦時には毛利輝元の代理で出陣した毛利秀元は徳川軍の背後の南宮山に布陣しますが、毛利家を守るため布陣する前から徳川家康に密かに通じていた吉川広家が毛利軍の参戦を阻んだため(吉川の空弁当)関ケ原の合戦では毛利軍は参戦できず、石田三成率いる西軍は総崩れし大敗してしまいます。
敗北後、安国寺恵瓊は一旦毛利本家の陣に赴きますが吉川広家と激しい口論の末に逃亡することになります。(吉川広家はその際に関ケ原の合戦と毛利輝元の西軍総大将の責任をすべて安国寺恵瓊に背負わせたんだと思います)
安国寺恵瓊は逃亡しますが京都の六条に潜んでいたところを徳川軍に見つかり、石田三成・小西行長と共に市中引き回しの上、六条河原で斬首されさらし首にされました。。。

毛利大好きの私からすれば、あれやこれやありますが安国寺恵瓊は好きな人物ではありません!

安国寺恵瓊の墓画像ギャラリー

毛利元就が安芸武田氏を滅ぼした時に幼い恵瓊が逃げ込んだ『安芸安国寺』です。関ケ原の合戦後、安芸国に入国した福島正則の時に『安芸安国寺』は禅宗から真言宗に改められたらしく不動明王を本尊とし『不動院』となっています。

安国寺恵瓊の墓情報

年 代1539年
住 所広島県広島市東区牛田新町3丁目5−16
種 別史跡
入場料無料
営業時間
駐車場有り(無料)

安国寺恵瓊の墓レビュー

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