馬場信春(信房)討死の地(愛知県)

馬場信春(信房)討死の地(愛知県)

馬場信春(信房)討死の地の感想

『馬場信春(信房)と馬場勝行の墓』から約450m先に『馬場信春(信房)討死の地』があります。
討死と云っても、たぶんですが私なりの解釈では武田勝頼を逃がした後に戦える余力がありながらも、潔しとせずに敵に囲まれ場がらもこの場所で『自害』した場所なんだろうなぁ~って思っています。

馬場信春(信房)は約800人ほどの軍団を引き連れ長篠・設楽原の合戦の参戦したようですね。織田・徳川連合に大敗し総崩れした武田勝頼を守り撤退の殿(しんがり)を務めながらここまで武田勝頼を逃がしたみたいです。馬場信春(信房)隊は800人から50人まで激減していたにも関わらず、武田勝頼を落とし姿が見えなくなるまでこの地で踏ん張った後に、ここで潔しとせずに自害したものと思われます。
しかも、馬場信春(信房)は生涯70回以上の戦に参戦していたがかすり傷ひとつもしておらず(この長篠・設楽原の合戦にも参戦し殿を務めていてもかすり傷ひとつも受けていなかった)武田家中では『不死身』と云われていた様です。
そんな馬場信春はここで自害したようで、『信長公記』によれば『余多の者に手を負はせ、其の後、腹十文字に切り、比類なき御働き』と記載されていた様で、それが『馬場信春(信房)と馬場勝行の墓』にあった案内板である『設楽原古戦場いろはかるた』には、『平然と首(こうべ)を渡す美濃守』と記載されていた通り、堂々たる最後だったんだと『凄み』を感じました!

馬場信春(信房)討死の地画像ギャラリー

『橋詰殿戦場』
その表記の通り、墓があった場所からこちらまでには小さな橋が架かっており、武田勝頼を逃がすために馬場信春(信房)軍はここで殿(しんがり)を詰めて戦った場所なんではないでしょうか???

この『橋詰殿戦場』から数百m先に『馬場信春(信房)討死の地』があります。。。

馬場信春(信房)討死の地への侵入ルートを発見しました!

私はこの豊川沿いが武田勝頼の撤退ルートだと思っていましたが、後で調べてみるとこの『ふぢう道』という細く厳しい道が撤退ルートだったみたいです・・・

この『ふぢう道』の斜面の上に『馬場信春(信房)の討死の地』があるようです。まさに、険しい山道&細道に入り込み武田勝頼を逃がした後にこの細道をふさぐようにいたんでしょうね!

めちゃめちゃ急斜面を登っていくとありました!

『馬場美濃守討死之地』です!少し感動しています!!!

馬場信春(信房)討死の地情報

年 代1575年
住 所愛知県新城市出沢銭亀
種 別史跡
入場料無料
営業時間
駐車場無し

馬場信春(信房)討死の地へのアクセス

馬場信春(信房)討死の地レビュー

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