海老山城の感想
海老山城は『えび』ではなく『かいろう』と呼びます♪
『海老山城(かいろうやまじょう)』ですわぁぁぁ(●^o^●)
現在は埋め立てられて住宅地となり、こんもりとした丘の公園になっていますが、その昔は、陸から少し離れた小島にある島城だったと思われます!? 海老山公園の造成により海老山城のほとんどが破壊されているが、城は二つの郭と三つの小郭からなっていたようです。本丸は54m×20mの規模で中央に櫓台があります。本丸の南端には石垣(石積み?)と虎口があり二の丸がつくられていたと思われます♪
1555年の厳島合戦の時、毛利方の毛利方の宍戸孫六が陶軍に攻められて家来三十人が死んだと云わっておりますが、海老山城は毛利方の島城としての機能していたと思われ、その後の海老山城の記録は残っておりません・・・(´;ω;`)ウゥゥ
余談ですが・・・幕末期にはここに砲台が築かれており、第二次世界大戦期には照空陣地が設置されてていたみたいで、戦後公園化したため遺構は攪乱・破壊されたみたいですね・・・
海老山城画像ギャラリー
海老山城は、標高53、7mの丘陵上に築かれた島城です。今でこそ周囲は陸地となっていますが、江戸時代までは広島湾に浮かぶ島、或いは広島湾に突き出した岬のような地形であったと云われており、島城・海城でしたぁ~♪

今回は本丸から攻めていきたいと思います~(^▽^)/~♪
本丸からの瀬戸内海の風景です・・・地味に朝焼けが微妙~苦笑







石垣に囲まれた本丸的なところだと思っていたのですが・・・んんん??? 本丸にしては小さい!
これは本丸でもなく見晴らし台でもなく、『湯蓋道空(ゆぶたどうくう)』と云う方の墓だったかもしれません!?((´∀`*))ヶラヶラ
湯蓋道空(ゆぶたどうくう)という村人から尊敬された『漁師』みたいです!?しかし、その息子の湯蓋道裕(どうゆう)は、いつも親の言うことと反対の行動をする大変な変わり者で、村人に「あまんじゃく」とあだ名を付けられました。湯蓋道空(ゆぶたどうくう)は死ぬ間際、家の近くの海老山に墓を建ててもらえる様にと考え、『わしの墓はあの海の上の津久根島に建ててほしい』と、わざと息子の湯蓋道裕(どうゆう)に言い残しました。ところが道裕は最後だけは遺言だけには逆らうまいと、津久根島で湯蓋道空を手厚く葬り墓まで建ててしまいました。道裕は最後まで、親の思いに沿うことができなかったのです・・・失笑 その名残っぽいものが残っていました!?(‘◇’)ゞ





軽い石垣・・・(〃艸〃)







本丸の南端には石垣を伴う虎口があり、二の丸に進むことが出来ます!



二のp丸まではこれまでの石垣(石積み)の跡が残されていますね!





海老山城は古典的な山城(島城)のカタチになっており、公園側から一直線に本丸に攻め込んでいく事が出来ます!!!( `ー´)ノ



























海老山城情報
築 城 | 不明(15世紀頃) |
城 主 | 新田氏、宍戸氏 |
住 所 | 広島県広島市佐伯区海老山町6−6 |
種 別 | 平山城、海城 |
廃 城 | 不明(16世紀頃) |
特 徴 | – |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 無し |
海老山城へのアクセス
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