木村城の感想
『木村城』は、相模国を本拠地としていた桓武平氏の土肥氏であった土肥実平が源頼朝に支え、源平の合戦後土肥実平の子遠平が安芸国沼田(ぬた)荘の地頭職となり拝領し、これを譲られた養子の影平が安芸国に移住した事から始まります。土肥氏は出身の相模国早河荘から名をとって土肥氏から小早川氏と名を変えたらしく、当初は沼田川が流れる場所に『高山城』を築き本城としたが、1258年に本城だった本郷沼田庄の地頭小早川茂平の四男、小早川政景は本流から分家として『都宇竹原荘』の地頭として入国し、沼田小早川氏とは別に竹原小早川氏として『木村城』を根拠として約14代300年間にわたって戦国大名として発展してきました。
小早川政景の子、景宗の代になると幕府によって『都宇・竹原荘』を没収されてしまいます。このため鎌倉末期から南北朝期の動乱では足利尊氏に味方。その軍功により旧領を回復し、足利氏直属の国人として勢力拡大の足がかりを築いていく事となります。
足利尊氏を背景に反幕府側(沼田竹原氏は親幕府側)の国人衆として勢力を拡大し、『都宇・竹原荘』を取り戻すと、南北朝・室町期は安芸沿岸を西方に向けて勢力を拡大し、内海衆(現在の呉市安浦町内海の勢力)を傘下に治め、さらに波多島(現在の呉市音戸町)あたりまでを支配下に置いたと云われています。
周防・長門国を本国とする守護大名の大内氏が勢力を拡大すると、竹原小早川氏は大内氏の傘下に入ります。応仁の乱が始まると竹原小早川氏は西軍(大内側)に付きますが、親幕府の本家・沼田小早川氏が東軍に付いたため対立が激化してしまい、東軍に味方した沼田小早川氏の居城である高山城を攻撃するなど、小早川氏は一時分断してしまいます。
応仁の乱後は大内氏と尼子氏の二大勢力に安芸国全体が乱戦に巻き込まれてしまい、1539年には竹原小早川氏の方ではなく沼田小早川氏が尼子氏に内通しようとしたため、逆に大内氏によって居城の高山城を占拠され城番を置かれるという事態に陥ったこともあるみたいです。。。
沼田・竹原両小早川氏は早世が相次たため安芸国における小早川氏も弱体化が進む・・・大内氏に城番を置かれ監禁状態になっていた当主の正平は後に赦され、大内氏の尼子討伐(出雲遠征)に小早川正平も従軍するが大敗を喫し、1543年に退却中に21歳で討死してしまいます。後を継いだ幼い小早川繁平は失明してしまい(これは個人的な見解でいろいろ意見はありますが私的には毛利元就の謀略ではないかと思っています)沼田小早川氏を統率できないようになります。そんな時、竹原小早川氏を養子で継いでいた小早川隆景(毛利元就の三男)が繁平の妹と結婚していたため竹原小早川家(分家)から沼田小早川家(本家)を継ぐこととなり、小早川家を一つにまとめ大大名の小早川隆景となります。
木村城は加茂川沿いにある山城で国道432号線を南下していくと『木村城案内板』があります。バス停も隣接!!!城山と云われる標高150mの丘陵を中心に築城された山城で約300年(凄いですねぇ~!?)竹原小早川家を支えていた城となります。個人的には小ぶりの本丸を中心に複数の曲輪が存在していましたがはっきりしなかった感じです、縄張り図を見てみると山城の裾野には複数の竪堀が築かれている感じです。驚いたのは三か所だったかな???井戸が確認でき、山城にしては『水』の確保には適していた山城だと思われ、小ぶりながらも規模と云いなかなか堅固な山城だったと想像できました♪(o^―^o)ニコ♪♪♪
木村城画像ギャラリー
『木村城の案内板』です!バス停近くにありました!ここにクルマを停める場所があるのですが、ここから木村城の入口はここから住宅地の脇を山沿いに登っていかなくてはならずけっこう距離がありました!






木村城の入口に到着です!ここで木村城と竹原小早川家の経緯かわかりますね~♪
なんて親切なんだろう~(^▽^)/









どなたかの墓石を眺めながら急斜面の山肌を登っていきます!









土塁が築かれておりますねぇ。。。けど、非常に古い形式の山城だと感じていました。。。(だいぶん経験が積まれてきたかな???(*`艸´)ウシシシ)





片面は絶壁となっており自然の地形を遺憾なく活かしています!



大きな曲輪がありそこにも井戸がありました!







井戸跡の後ろには山の斜面を活かした土の壁がありますねぇ~


ぐるりと回り本丸を目指すと、上の段に『井戸の段』と云われる曲輪がありました。


















井戸の段の井戸です!朽ちてますねぇ~笑


さてさて・・・いよいよ本丸に突撃です!!!






『兵糧の段』と云われている場所になりますが、まぁ~木村城の二の丸みたいな場所になりますねぇ。北端には若宮社があったようで小早川隆景が祀られましたが、麓の『小早川神社』が新たにでき移したため若宮社は廃宮となったようです。若宮社跡には、礎石や瓦の破片などが散乱していました~(´;ω;`)ウゥゥ










さてさて・・・本丸に進んでみましょう!!!














本丸は土を盛った小ぶりの丘の上にあるみたいですね~


本丸近くにも三つ目の井戸を発見しましたぁ!!!


本丸に攻め込みます!!!そんな動画をどうぞ!!!
【動画】本丸
本丸に攻め込みます!!!

























木村城は古い形式をとった山城ですが、しっかりと地に足をつけた堅固な山城だと感じました!小早川隆景は先ず竹原小早川氏を継いでこの木村城に入城し、竹原小早川氏と本流の沼田小早川家の居城だった高山城に入城し、その後、高山城のすぐ目と鼻の先『新高山城』の居城を移してしまいま。

木村城情報
築 城 | 1258年 |
城 主 | 小早川氏 |
住 所 | 広島県竹原市新庄町 |
種 別 | 山城 |
廃 城 | 不明 |
特 徴 | 県指定史跡 |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 有り(無料) |
木村城へのアクセス
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