木崎城の感想
勝手に『南方三十三館シリーズ』第4弾!!!『木崎城』です(^▽^)/
佐竹義重・義宣親子を調べてて、常陸国を治めるにあたって居城だった太田城から水戸城へ移す際に、秀吉の天下の中、未だ従わなかった常陸国の武将たちを太田城に呼び、騙し討ちで皆殺しにした(中には逃げ出せた武将もいましたが後で滅ぼされています)話が合って、その対象が『南方三十三館(なんぽうさんじゅうさんだて、なんぽうさんじゅうさんやかたと呼ぶみたい)』となり、鹿島・行方両郡の常陸大掾(だいじょう)氏系の一族を中心とする勢力だった様で、その滅ぼされた南方三十三館の城攻めをしたいと思い!勝手に『南方三十三館シリーズ』で城攻めしてみたいと思います(o^―^o)
(この文章は『南方三十三舘シリーズ』で転記していきますのであしからず!)
上記の通り、鹿島・行方両郡では常陸大掾(だいじょう)氏系の一族ではなく、武田氏(甲斐の武田と同じ一族?)が居城としていたのがこの木崎城です!そぉいえば!近くに武田発祥の地とされる『武田氏館跡』がありましたね!
木崎城の最後の当主は武田信房と云われ、上記の通り、佐竹親子に太田城に呼ばれ『南方三十三館』の1人として謀殺されたと思われます。あえて常陸武田氏(って言わせてもらいましょう♪)は、常陸武田氏が滅亡したと思われていましたが、武田信房の子の輔信は逃れ隠れ住み後々に、水戸光圀公に仕えたとされており、また、武田信房の弟の武田勝信は鹿島郡青柳に進出し青柳氏を称していたが、常陸武田氏が滅亡すると、青柳の地で帰農したとも云われているみたいですね。 武田氏と常陸国は関係が深いんだなぁ~って興味をそそられました♪
木崎城画像ギャラリー
木崎城跡は行方台地の東部に位置し、木崎城の北側には『武田川』があり右側の標高13メートルの舌状に張り出した丘っていうか台地っていうかの場所に構築された連郭式の平山城でした!
さざれ石
鹿行橋がある国道354線沿いにあり北浦の西側にある城で、香取神社周辺に城があったと思われます!
???????『さざれ石』を発見!なんだか少しうれしいなぁ~♪(o^―^o)
木崎城情報
築 城 | 1533年 |
城 主 | 武田氏 |
住 所 | 茨城県行方市内宿1010-1 |
種 別 | 平城 |
廃 城 | 1602年 |
特 徴 | 市指定史跡 |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 無し |
木崎城へのアクセス
木崎城レビュー
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