『大友義統本陣跡』から約1㎞山を下った場所に『吉弘嘉兵衛統幸陣所跡』があります!
石垣原の戦いの際に大友義統の右腕として前線に陣を張ったのが吉弘統幸です!( `ー´)ノ!!!
吉弘統幸は大友氏を最後まで支える忠臣で、豊臣軍が大失態(大敗)した戸次川の戦いの際は、主君、大友義統や長宗我部軍、仙石軍らを逃がすために祇園川原の戦いで三百の手勢を分け『一陣は鉄砲』『二陣は弓』『三陣は長槍』の三段構えの陣を指揮し殿軍となって防いだと云われています。
豊臣秀吉の逆鱗に触れ大友義統が改易されたときには一時、豊前国中津、中津城主だった黒田官兵衛に招かれて、黒田家重臣、井上 之房(黒田二十四騎、黒田八虎のひとり!通称は九郎右衛門(くろうえもん)と呼ばれていました)の家に招かれていました~(大河ドラマ:黒田官兵衛でも描かれていましたね~♪) その後、柳川城主の立花宗茂の下に身を寄せることになって2,000石で仕えたみたいです。
1600年に関ケ原の戦いが始まると、立花は宗茂は西軍側につくことを表明したが、吉弘統幸は大友義統の子の大友 義乗(おおとも よしのり)が徳川家に仕えていたため大友家の旧恩に酬いようと立花家を暇請いし大友義乗の元へ向かいます!!! その道中に大友家の再興を狙う大友義統と再会し、大友義乗のこともあり義統に東軍側に加担を進言するが、義統は聞き入れず西軍側に加担したため、吉弘統幸もこれに従った。。。
黒田軍と激突した『石垣原の戦い』では、先陣鯛の母里与三兵衛たちを『釣り野伏せ戦術』の鉄砲隊で大損害を与えるなど大奮闘するが、徐々に黒田軍に圧される大友軍は次第に劣勢となってしまします。吉弘統幸は主君の大友義統に別れを告げ、手勢30余騎で黒田勢に突撃し七つ石において旧知の黒田家臣の井上之房に功を挙げるため自刃して討たれたと云われています。
吉弘統幸の討死によって大友勢は事実上壊滅し、大友義統は黒田官兵衛降伏し捕えられます。『石垣原の戦い』東軍側の大勝利と終わりました!
『吉弘嘉兵衛統幸陣所跡』は観海寺温泉(杉乃井ホテル)の南東角地に目立つ説明板が置かれていました。私は『大友義統本陣跡』から山道を下る感じで進んでいたため、下りカーブで急に出てくる感じです((´∀`*))ヶラヶラ!!!眺めもなかなかでしたよぉ~♪